「江戸八百八町物語」

柴田錬三郎作

ドットブック版 180KB/テキストファイル 109KB

500円

大久保彦左衛門の武士の心意気、堀部安兵衛をめぐる赤穂浪士異聞、ご落胤天一坊、ゆすりで名高い旗本河内山宗俊、有馬の猫騒動、五代将軍綱吉物語など、徳川三百年の歴史をいろどった武士と庶民の暮らしを描いた柴錬ならではの十二話。

柴田錬三郎(1917〜78) 岡山県生まれ。慶大支那文学科卒。在学中から「三田文学」に作品を発表しはじめ、「イエスの裔」で直木賞受賞。「眠狂四郎無頼控」で一躍、時代小説の第一人者、人気作家となった。代表作には「剣は知っていた」「赤い影法師」「柴錬立川文庫」の連作などがある。

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 慶長八年、江戸城の大改築が成り、東南の海辺三十四町を埋めたてて新しい市街がつくられた時、徳川家康は、大久保彦左衛門を呼んで、
「屋敷をつかわそうと思うが、どのあたりが欲しいか、申せ」
と、云った。
 彦左衛門は、即座に、
「大名衆の屋敷を、一望のもとに見下(みおろ)せる台地が欲しゅうござる」
と、こたえた。
「では、望みのままに、おのれでえらぶがよい」
 家康は、微笑して、云った。
 江戸は、つくられたばかりの城下町であった。欲しい土地を自由にえらぶことができた。
 江戸を家康にくれたのは、豊臣秀吉であった。
 天正十八年四月、日本全土の大軍をもって小田原北条氏を囲んだ折、一日、秀吉は、家康をともなって、石垣山の本営から、脚底の小田原城を見下し乍(なが)ら、
「北条が滅んだならば、あの城に、お許(こと)が移られたら、どうじゃ?」
と、すすめた。
 家康は、つつましく、
「有難き幸せ――」
と、こたえた。
 小田原城をくれる、ということは、関東八州を与える、という意味であった。
「では、ひとつ、小便など、あびせてやろうかの」
 秀吉は、前をまくった。
「相伴(しょうばん)つかまつる」
 家康も、前をまくった。
 二条の液体は、小田原城にむかって、勢いよく落下した。
 放出し終えた時、家康は、何気ない口ぶりで、
「関東を賜(たまわ)って、これを治めるには、この小田原は、ちと端(はし)寄りでは、ありますまいか」
と、云った。
「それも、そうだの」
「八州の中央ならば、この地より東に、およそ二十里へだてて、江戸城がござる。太田道灌が築いた城でござる。もう古びはてて居りますが、河を帯び丘を控えて、天然のまもりもよろしく、おゆるしあれば、改築いたして、すまいにいたしたく――」
 秀吉は、その願いをゆるした。
 並の頭脳の武将なら、天下に名をとどろかせた北条氏の居城を、大よろこびで、もらうところであった。あるいは、小田原が不服なら、嘗(かつ)て幕府の在った鎌倉を申出るところである。
 家康は、あえて、江戸を所望した。
 当時、江戸は、どう見ても、関八州の太守の住むところとは、考えられなかった。
 城といっても、かたちばかりで、構えはきわめて小規模で、濠(ほり)もせまく、城壁すらもないと同様であった。町屋といえば茅葺(かやぶ)きの家が百ばかりならんでいるだけであった。
 東方は、ここもかしこも、汐(しお)入りの芦原がつづき、侍屋敷町屋(まちや)をものの十町と割りあてられそうもなかった。西南は、渺々(びょうびょう)たる武蔵野の原野で、何処(どこ)をしまりというべき様もなかった。
 いわば、八方があけひろげられている地であった。
 武将のすまいは、常に敵襲に備えて、地形がえらばれる。その常識からすれば、江戸は最も不適地であった。
 家康が、居城に江戸をえらんだときいて、麾下(きか)の士らは、茫然としたことであった。
 家康は、別に、家臣たちに、なぜ江戸をえらんだか、その理由を説明しようとはしなかった。

……「その一 江戸っ子由来」巻頭より

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