「血の収穫」

ダシール・ハメット/能島武文訳

ドットブック版 219KB/テキストファイル 175KB

500円

ハメットの長編処女作。この一作によってハードボイルドは誕生した。舞台はポイズンビル(毒の町)の異名をとる鉱山町パースンビル、新聞社社長からの「頼みたい仕事」があるという依頼を受けてサンフランシスコから派遣された「わたし」こと、コンチネンタル探偵社のオプ……だが待っていたのは依頼主の射殺事件だった。派閥のボスたちの争いは、血は血をよび、果てしなくつづく。

ダシール・ハメット(1894〜1961) 13歳で学校を離れ多くの下積みの職を転々としたあと、サンフランシスコのピンカートン探偵社にはいる。その経験をいかしてパルプ・マガジンに次々と短編を発表、「赤い収穫」「デイン家の呪い」でデビューし、「マルタの鷹」で最高のハードボイルド探偵小説作家としての地位を不動のものにした。

立ち読みフロア

 パースンビルのことを、ポイズンビルと人がいうのをはじめて聞いたのは、ヒッキイ・デュイーという赤毛の選鉱夫からで、モンタナ州の鉱山町ビュートの『ビッグ・シップ』という酒場でだった。その男は、自分のシャツのことも、ショイツといっていた。その時は、その町の名前を、その男がなんといおうと、いっこう気にもならなかった。その後になって、r《アール》の発音はどうにか出来る人々が、この町のことを同じように発音するのを、度々耳にした。それでも、泥棒仲間の隠語で、ディクショナリ(辞書)のことをリチャーズナリというのと同じような、意味のない洒落ぐらいにしか考えもしなかった。それから数年経って、パースンビルへ行き、そのわけがようくわかるようになった。
 駅の構内の電話を使って、『ヘラルド』社を呼び出して、ドナルド・ウイルスンにつないでくれといった。そして、かれに到着を知らせた。
「こん晩十時に、ぼくの家へ来てくれるかね?」気持ちのいい、きびきびした声だった。「山の手通りの二一〇一番地です。ブロードウェイの電車に乗って、ローレル街でおりたら、西へ二町歩くんです」
 わたしは、そうしようと約束した。それから、グレート・ウェスタン・ホテルへ車を乗りつけて、荷物をほうりこむと、町を見物に出かけた。
 町は、美しくはなかった。たいていの建築家連中が、派手な美しさをねらったのだ。恐らく、はじめはなかなかいい結果をもたらしたのだろう。ところが、精錬業者たちが、町の南にあたる陰気な山のきわに、高くそびえ立っている煉瓦造りの煙突を、なん本も押っ立ててからというものは、黄色い煙で、なにからなにまで町じゅうを薄黒く燻《いぶ》してしまった。その結果は、人口四万の一つの醜悪な町が、鉱山のおかげですっかり汚されてしまった二つの醜悪な山の間の、醜悪な谷間に出来あがってしまったのだ。その谷の上をおおっているのは、精錬所の煙突から湧いて出たかと思われるようなきたない空だった。
 最初に見かけた巡査は、不精ひげをのばしていた。二人目のは、着古した制服のボタンが二つもはずれていた。三人目は、この町の目抜きの二つの大通り――ブロードウェイとユニオン通り――の交差点のまん中に立って、葉巻を横ぐわえにしたまま交通整理をやっていた。それからは、巡査に眼をつけるのはやめにした。
 九時半に、ブロードウェイ線の電車に乗って、ドナルド・ウイルスンがいった通りの道筋を辿った。すると、街角の、生け垣をめぐらした芝生に建っている一軒の家の前に来た。
 ドアを開けた女中は、旦那さまはお留守です、といった。旦那さまとの約束で来たのだと説明していると、緑色のクレープ地の服を着た、まだ三十には間がありそうな、すらりとした金髪《ブロンド》の女が、玄関へ出て来た。にっこり微笑を浮かべる時でも、その青い眼は、石のような堅さをなくさなかった。わたしはもう一度、かの女に約束のことをくりかえしていった。
「ただいま、主人はおりませんのですよ」ほんの少し耳にさわるほどの訛りがあって、Sの発音がはっきりしなかった。「ですけど、お約束したのでしたら、きっと、間もなく帰ってまいりますのでしょう」
 二階のローレル街に面した部屋に通された。茶と赤を主調にした部屋で、たくさんの本がならんでいた。やや、火の燃えている暖炉の方に向いた革張りの椅子に、なかば向かい合って腰をおろすと、かの女は、どういう用事があって夫のところへ来たのか、さぐりにかかった。
「パースンビルにお住まいでございますか?」と、まずたずねた。
「いや、サンフランシスコです」
「でも、はじめていらしたのじゃないんでしょう?」
「はじめてです」
「まあ、そうですの? いかがですか、この町がお気に入りまして?」
「まだ、それほどよく見てはいないのです」というのは嘘で、すっかり、もう見てしまっていた。「きょうの午後、着いたばかりですから」
 かの女のきらきらと光る眼が、ものをいう間だけは、せんさくするような色をやめた。
「きっと面白くない町だということがおわかりになりますわ」かの女はまた、せんさくするような調子にもどって、「鉱山町って、みんなこんななんでしょうね。あなたも鉱山のお仕事をなすっていらっしゃいますの?」
「いまは、やってはいません」
 かの女は、暖炉棚の上の置時計を見て、いった。
「こんな夜の、おつとめもとっくにすぎた遅い時間に、こんなところまでおいでを願っておきながら、お待たせするなんて、ドナルドもずいぶん考えがなさすぎますわね」
 かまいませんと、わたしはいった。
「どうせ、お仕事のことではないんでしょうけど」と、遠まわしに、かの女はいった。
 わたしは、なんともいわなかった。
 かの女は、声を出して笑った――なんとなくとげのある、ぶっきら棒な笑いだった。
「多分、あなたがお考えになっていらっしゃるほど、ほんとうは、いつもは、こんなひどい出しゃばりじゃないんですのよ」と、陽気にいった。「だって、あなたったら、ひどく隠し立てをなさるんですもの、つい気にせずにはいられなかったんですわ。闇のお酒屋さんじゃないんでしょう? ドナルドったら、しょっちゅう相手を変えるんですもの」
 わたしはにやにやして、なんとでも勝手に思わせておいた。
 その時、階下で電話のベルが鳴った。ウイルスン夫人は、緑色の室内靴をはいた足を燃えている火の方へ伸ばして、ベルの音などきこえないようなふりをしていた。なぜそうする必要があると考えたのか、わたしにはわからなかった。
 かの女は、「あたしはそういう気がするんですけど――」といいかけたのをやめて、戸口にあらわれた女中を見た。
 奥さまにお電話ですと、女中はいった。かの女は、失礼しますといって、女中の後から部屋を出て行った。階下へはいかずに、すぐに耳にはいるほど近くの内線の受話器に切り換えさせて話した。
「ウイルスンの家内でございます……はあ……なんでございますか?……誰でございます?……もう少し大きな声でおっしゃっていただけません?……なんでございますって?……はい……はい……どなたでいらっしゃいますの?……もしもし! もしもし!」
 受話器の掛け金が、がちゃんと鳴った。かの女の足音が、廊下を遠のいて行った――あわただしい足音だった。
 わたしは、巻煙草に火をつけて、じっとそれを見つめながら、夫人が階段をおりてしまうまで足音をきいていた。それから、窓際へ行って、ブラインドのはしを持ちあげて、ローレル街を見、その通りに面した、この家の裏手にある四角な白いギャレージを見た。
 やがて、黒い外套と帽子の、すらりとした女が、家からギャレージへ急ぐのが視界にはいって来た。ウイルスン夫人だった。かの女は、ビュイックのクーペを運転して出て行った。わたしはもとの椅子へもどって、待っていた。
 四十五分がすぎて行った。十一時五分すぎ、ブレーキの軋る音が、外でした。二分ほどすると、ウイルスン夫人が部屋へはいってきた。帽子も外套もぬいでいた。顔は蒼白で、眼はほとんど黒といってもいいほどだった。
「ほんとに相すみません」といったが、かたく結んだ唇を、ぴくぴくと引きつらせて、「でも、こんなにお待ちになりましたのに、なんにもなりませんでしたわ。主人は、こん晩はもどってまいりません」
 では、あすの朝、『ヘラルド』社の方へ連絡しましょうと、わたしはいった。
 わたしは、かの女の左の室内靴の緑色の爪先が、なにか、たしかに血のようなものに濡れて黒ずんでいたのは何故だろうと、いぶかりながら、この家をはなれた。

 ブロードウェイまで歩いて、市街電車に乗った。ホテルから三ブロック北のところまで来ると、市役所の横の入り口のあたりに人だかりがしているので、おりて様子を見に行った。
 三、四十人の男のなかに、ちらほらと女もまじっているのが歩道に立って、『警察部』という字のついたドアを見ている。まだ仕事着のままの鉱山や精錬所の労働者たち、公開の賭博場やダンスホールから帰りがけの派手な身なりの若者たち、なまっ白い顔のおしゃれな男たち、社会的地位のある夫といったような面白くもなさそうな顔つきの男たち、同じような数人の鈍い表情の女たち、それに、数人の夜の女など、そんな人の群れだった。
 この人だかりのはしの、皺だらけの灰色の服を着た、がっしりした体つきの一人の男のそばに、わたしは立ちどまった。三十をいくつも越してはいないようだったが、その男の顔も、厚い唇までが灰色がかっていた。顔は幅広く、どっしりとした顔つきで、なかなか頭が働きそうだった。この男の身のまわりにある色といえば、灰色のフランネルのシャツの胸に、花のようについている、まっ赤なウインザー式のネクタイだけだった。
「なんの騒ぎだね?」と、その男にたずねた。
 かれは、へんじをする前に、じっと注意深くわたしを見た。まるで、うっかりものをいっても大丈夫な人間かどうか、確かめようとでもするような眼つきだった。その眼の色も服地の色と同じように灰色だったが、服地ほどにやわらかではなかった。
「ドン・ウイルスンが、神さまの右側の席へすわりに行っちまったのさ。もっとも、神さまの方で、ピストルの弾丸の孔を気にしなければの話だがね」
「誰がうったんだね?」と、わたしはたずねた。
 灰色の男は、頭のうしろを引っかきながら、いった。
「誰か、拳銃を持った男だ」
 わたしがほしいのは細かい事実の話で、洒落ではなかった。この赤ネクタイがわたしに気がないのなら、誰か、群集の中のほかの人間をつかまえたってよかったのだ。わたしはいった。
「おれは、よそから来た人間なんだ。ちゃんと順序よく話してもらいたいね。でなきゃ、よその者にはのみこめないよ」
「『ヘラルド』新聞社長のドナルド・ウイルスンとおっしゃる旦那が、ちょっと前に、射殺されているのがハリケーン通りで発見されたのです。誰がうったかはわかりません」と、一本調子の早口で述べ立てた。「これで機嫌を直してもらえますかね?」
「ありがとう」わたしは、指を一本出して、男のネクタイのはしにさわった。「これは、なんのつもり? それとも、ただ着けてるだけ?」
「おれは、ビル・クイントってんだ」
「なんだ、きみか!」その名前をしっかり頭に入れようとしながら、わたしは叫ぶようにいった。「まったく、会えてよかった!」
 名刺入れを取り出して、いろんな手を使って、あちらこちらで集めた身分証明書の収集品のなかをかきさがした。ほしかったのは赤い名刺だ。それはI・W・W(世界産業労働組合)の立派な地位にある組合員、熟練海員ヘンリー・F・ネイルが、わたしだということを証明する名刺だ。もちろん嘘っぱちのことだ。
 その名刺を、ビル・クイントにわたした。相手は、表も裏も念入りに読んでから、わたしに返し、信用出来んという顔つきで、帽子のてっぺんから靴のさきまで、じろじろとわたしを眺めまわした。

……「一 緑衣の女と灰色の男」より

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