「おびえる女」

M・R・ラインハート/妹尾韶夫訳

ドットブック版 368KB/テキストファイル 168KB

700円

資産家の未亡人は、毎夜自室に侵入するコウモリ、雀、ネズミにおびえていた。フラー警部の頼みで未亡人の部屋番となった敏腕看護婦ヒルダは、砒素を盛られたと主張する老婦人の奇妙な生活習慣に目をみはる。その背後には無職の長男夫婦、離婚した長女とその前夫、二人の娘ジャニス、召使い、お抱え医師などが織りなす複雑な人間模様があった。こうしたなかで老夫人が殺害され、ついでヒルダの監視の眼をくぐって次の殺人が……サスペンス・ミステリーの代表作。

M・R・ラインハート(1876〜1958)ピッツバーグ生まれのアメリカの女性作家で、フルネームはメアリー・ロバーツ・ラインハート。ミシンの行商人の家に生まれ、看護婦養成学校卒。苦しい家計を助けるためペンをとりはじめ、1908年に発表した「螺旋階段」で一躍人気作家となった。「アメリカのクリスティ」ともよばれるサスペンスの第一人者。

立ち読みフロア
 ひとつの事件をかたづけたあとの、ヒルダの生活は、いつもとおなじであった。浴用塩をじゅうぶんに使って、長いあいだ風呂に入って、少しばかりの白髪のまじった短い髪の毛をシャンプーで洗い、足先をこまかく調べて爪を切ったあとで、いま彼女は健康そうな華奢な両手に化粧水をすりこんでいるところなのである。
 皮膚がバラ色で、子供みたいに目の澄んだこの女が、ナイトガウンを着て腰かけているところは、三十八才の天使としかみえなかった。そして、この、天使としかみえないということは、ちょうどそのおなじ日に、フラー警部が新任の警察本部長に話したように、彼女の商売道具みたいなものであった。
「あの女には、子供みたいなところがあるんです。子供は、赤ん坊というものはコウノトリが持ってくるものと思っていますが、あの女にはそんなところがあるんです」そう警部はいう。「十五年も看護婦をしている女としては珍しいですよ。それでいて、あの青い目は、私たちが顕微鏡でみるようなことをちゃんと見ているんです。そのうえ、たいていの人があの女をすぐ信用してしまう。あまり口をきかぬ女なので、秘密がもれる心配がないと思うせいか、あの女はただ座って編み物をしながら、自分のカナリアの話をするだけですが、相手の人間はあの女の前に出ると、知っていることをぜんぶ喋ってしまう。まったくあれは、生まれつきの才能ですな」
「都合のいい才能だ」
「都合がいいですとも。金持ちの家に病人ができると、まず第一にどうしますか? 一流の看護婦をやとうでしょう。家の誰かが倒れる。すぐあの女がとんで行くという段取りとなるのです」
「でも、金持ちの家庭では、まずそんな騒ぎはないでしょう?」
 意味ありげに笑って、警部は新任の本部長を見た。「ところが、金があると、それがかえってわざわいのもとになるらしいんです。時によると気が変になる人間も出てきましてね」
 警部はそういって笑った。
 本部長は不思議そうに彼を見ていた。警部はつづける。「じつは、今日もひとつ、ある婆さんの寝室にコウモリが出て困るという報告がきているのです。部屋の隙間をふさいでも、どこからかコウモリが入ってくる。時にはネズミも出る。雀も一、二羽はいってきたというんですよ」
 本部長はわざと仰山そうにまゆをつりあげ、
「熊や象はでないんですか?」
「そんなものは出ませんが、なんだか変てこな音が聞こえたりするそうです」
「幻聴というやつかな。年をとった人には、ちょいちょいそんなのがありますよ。私の家内の母は死んだ良人の幻をみたりしていましたが、そのくせ生きているときには仲が悪くて、その良人に物を投げつけたりしていたそうです」
 本部長がそんなことをいうと、警部はお世辞笑いをして、
「そんなこともあるでしょうね。その婆さんには孫娘がいるんですが、それが婆さんのいうことを信じて、警察へ報告させたのです」
「どうしてくれというんです?」
「その娘が、夜だけ巡査に見張りにきてくれというんです。フェアバンクスのうちですよ。あなた、ごぞんじでしょう? 娘のほうは、誰か人が家の中に入りこんで、その人がいろんな動物をいれるのだといいますが、婆さんはそうじゃない、家のなかにおかしなことがあるのだというのです」
 本部長は驚いたような顔になり、
「イライザ・フェアバンクスのことじゃないですか?」
「まだよく知らないんですが、フェアバンクス夫人といっているんです。ヘンリー・フェアバンクスの未亡人です。ご存知かどうかしりませんが」
「ああ、あれか」本部長は小声で、「それで、どうしたんです? どういってやりました?」
 警部は立ちあがってちょっと足をゆすぶって笑い、
「婆さんのお友だち、相談相手を紹介してやりました。信頼もできるし、感じのいい女友だち。つまり看護婦ですな。婆さんは医者に相談するといっていましたが、早くその返事が聞きたいと思っています」
「看護婦というのは、ヒルダのことかね?」
「そう、ミス・ヒルダ・アダムズです」と警部は〈ミス〉という言葉に力をいれ、「あの人がいま暇なら行かせてみて、ほんとに化物屋敷であるのか、じっさいに動物が出るのか、ヒルダに調べさせたら、まちがいがないと思うんです」
 警部は笑いながらそんなことをいって部屋を出ると、本部長は大きなデスクのそばの椅子にもたれかかって、「ううん」とかすかに唸った。たとえそれがイライザ・フェアバンクスみたいな有名な婦人であろうと、忙しい彼は、老人のことばかり考えてはいられなかった。老人というより、彼らは老いぼれといったほうがいい。
 その日、警部は夜になるまで、フェアバンクス家のその後のたよりを聞くことができなかった。晩の八時、電話をかけてきたのは医者ではなくて、老夫人の孫娘であった。
「フラー警部さんですか?」
「そうです」
「いまおばあさんに会いましたら、またコウモリを一匹とったから、あなたにお知らせしてくれといっています」ひどく興奮した声だった。
「またとった?」
「え?」
「またコウモリをとったのですか?」
「ええ、タオルでとったそうです。それでお知らせするわけなんですが、おばあさんはわたしたちや女中じゃ信用してくれませんの。警部さんに頼んで、誰かよこしてもらってくれといいますの。さっき、いい看護婦がいるとおっしゃいましたが、そのかたを今夜、よこしていただけないでしょうか。おばあさんもたいへん心配しているようですから」
 警部はちょっと考えて、
「医者はどういうんです?」
「医者に話したら、あなたに相談するとかいっていました。医者はブルックさんです」
「よろしい。承知しました」
 警部は受話器をおいた。
 ざっと以上のようないきさつだったのである。以上のようないきさつから、ヒルダが両手に化粧水をすりこみ、カナリアの籠におおいをかけ、小さいベッドに入りかけたら、けたたましい電話のベルが鳴ったのである。
 いまいましげに、彼女は電話機を見た。一つの事件から他の事件に移る前には、彼女はしばらく休んで、制服の手入れをしたいし、もうどうにもならぬほどいたんだ靴下の穴もかがりたいし、映画も一つや二つはみたかった。しばらく彼女はベルが鳴るままにまかせていたが、それでもしまいには受話器をとって、
「もしもし」とこたえた。
「フラー警部です。あなた探偵さん?」
「探偵だなんていやだわ! ヒルダ・アダムズといってください」冷たくいった。
「もうお休みですか?」
「ええ」
「そいつは困ったな。また新しい事件で、お願いがあるんですけれど」
「今夜はだめ」ヒルダはきっぱりとことわった。
「でも、面白いんですよ。婆さんがね、部屋んなかでコウモリをつかまえたんですって、タオルで」
「へえ! 髪の中にもぐりこんだのをつかまえたり、昆虫網でとったりしたのじゃないの?」
「私がタオルといったら、タオルのことですよ。小鳥やコウモリやネズミが、部屋んなかにいるんだそうです、動物園みたいに」
「ご承知かと思いますが、わたし、精神病のほうは、畑ちがいですの。それに、いま一つ仕事をかたづけたばかりなので、一息いれたいのですけれど」
 警部はやっきとなって、
「いまのところ、まだなんともわからんですが、私はどうも変な事件だと思うんです。その婆さんの家には、孫娘がいるんですが、その娘が本当だというんだから、コウモリが出るというのも嘘じゃないんでしょう。これからその娘が、直接、電話であなたにお願いしますから、ひとつ気前よく引き受けてやってください」
 困ったような目つきで、ヒルダは部屋のなかをみまわした。そこにはおおいをした鳥籠や、温かそうなベッドがあり、開け放した出入り口からみえる隣の居間には、カバーをかけた椅子や、柔らかい感じのカーテンや、まだ目を通さぬ雑誌をつみかさねてあるのがみえる。いましがた風呂で洗ったばかりの髪の毛が、まだ乾いていないことも気がかりだった。
「この頃はコウモリが出る季節ですから、それを一匹ぐらいとったといって、べつに不思議なことはないでしょう?」
「いや、部屋をしめきっておいても、どこからともなくコウモリが入ってくるので、それが不思議なんですよ。厄介な仕事だけれど、ヒルダさん、ひとつお願いします」
 ふしょうぶしょう彼女は承諾した。そして、彼女が鞄をつめていたら、また電話が鳴った。弱々しい、若い女の声だった。それは、フラー警部の指示にしたがっての電話らしかった。
「医者のブルックさんの許可を得て、お願いするわけなんですが、夜分おそくて失礼なんですけれど、祖母が病気ですから、今夜きていただきたいのですけれど。祖母をひとりで、寝させとくわけにいきませんの」
「さっき、フラー警部さんからお話がありましたが、あなた、あのうちのかたですか?」
「そうなんです」心配げな女の声だった。
「承知いたしました。一時間のうちに参ります。なるべくはやく」
 ヒルダは、電話の向こうに安堵の溜息を聞いたように思った。
「そうですか、それはどうもありがとうございます。こちらはグローヴ街十番の、フェアバンクスです。お待ちしています」
 受話器をかけて、ヒルダはベッドのはしにすわった。フェアバンクスという名前を聞いて、彼女は胸を突かれる感じだった。長いあいだ社交界の花型だった夫人の老いの果てが、タオルでコウモリをとる婆さんだとは!
 フェアバンクス夫人というのはヒルダが子供の時から聞いた名前だった。その頃のフェアバンクス家の広い芝生には、まだ鉄製の鹿を飾って、その芝生を鉄柵でかこんであったが、いまはその鹿もとり去られ、夫人の良人ヘンリー・フェアバンクスも亡くなり、附近の景色もすっかり変わって、きたならしいアパートの立ちならぶ街角には、庶民むきのマーケットさえできていた。いま残っているのは、四角な大きな建物だけで、変わりゆく世間をよせつけまいとするかのように、それを長い鉄柵がとりかこんでいる。
 ベッドをおりて、彼女は服を着はじめた。幼い時のフェアバンクス家の記憶に敬意を表して、いちばんよい服と帽子を身につけた。それから、片手に鞄、片手に鳥籠をさげ、階段をおりた。建物の入口の、管理人のおかみのいる事務所へおりると、彼女は鳥籠のおおいをとった。カナリヤは慌てて籠のなかで飛びまわったが、鋭い、つぶらな目でおかみを見ると、安心したのか静かになった。
「おとなしくしてらっしゃい、ディッキー。毎日水を浴びるんですよ」
 そう彼女はいった。鳥が鳴いた。彼女はまた籠におおいをかけた。いつもあっちへ行ったり、こっちへ来たりで、忙しくてろくに小鳥の世話もできない。そう思うと、彼女はいささか憂鬱だった。いつもの習慣で、行く先を書いた紙片といっしょに、カナリアを事務所にあずけた。それから彼女は静かに建物を出て、すたすた街角の駐車場へ歩いていった。なじみのタクシーの運転手ジムが、帽子をとって会釈し、鞄をうけとって、
「さっきお帰りになったのに、もうお出かけですか?」
「ええ、こんどはグローヴ街なの」
 すぐ運転手は彼女の顔をふりむいて、
「フェアバンクスさんのお宅ですか?」
「あすこのお婆さんが病気なの」
 だしぬけに運転手は笑いだした。
「コウモリが出るんですってね?」
「コウモリ? だれから聞いたの?」
「ちょっと、そんな噂を聞いたのです」快活にジムはこたえた。

……冒頭より


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