「銭形平次捕物控(3)」

野村胡堂作

ドットブック版 114KB/テキストファイル 74KB

400円

「あっしはつくづく世の中がイヤになりましたよ、親分」八五郎は柄にもなく、こんなことを言い出すのです。「あれ、たいそう感じちゃったね、出家遁世《とんせい》でもする気になると、二三人泣く娘があるぜ」…おなじみの調子で始まる「月待ち」のほか、「百草園の娘」「飛ぶ若衆」「猫の首環」「八五郎の恋人」の5編を収録。
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「親分、あっしの身体が匂やしませんか」
 ガラッ八の八五郎が、入って来ると、いきなり妙なことを言うのです。
 九月のよく晴れた日の夕方、植木の世話も一段落で、銭形平次はしばらくの閑日月《かんじつげつ》を、粉煙草をせせりながら、享楽している時でした。
「さてね。お前には腋臭《わきが》がなかったはずだし、感心に汗臭くもないようだ、臭いと言えばお互いに貧乏くさいが――」
 平次は鼻をヒクヒクさせながら、こんな的の外れたことを言うのです。
「嫌になるなア、そんな小汚い話じゃなく、もっと良い匂いがするでしょう」
 八五郎は素袷《すあわせ》の薄寒そうな懐ろなどを叩いて見せるのでした。
「あの娘《こ》の移り香を嗅がせようというのか、そいつは殺生だぜ、腹の減っている時は、そんなのを嗅ぐと、虫がかぶっていけねえ」
「相変らず、口が悪いなア、そんなイヤな匂いじゃありませんよ、お種人参《たねにんじん》と忍冬《にんどう》と茴香《ういきょう》が匂わなきゃならないわけなんだが」
「どこで、そんなものをクスねて来やがったんだ」
「人聞きの悪いことを言わないで下さいよ。香いの良い薬草を、一つ一つ紙に包んで、綺麗な人から貰ったんですよ、それを紙入に入れて、内懐ろで温ためてあるんだが――」
「そんなものなら、髷節《まげぶし》へ縛って、鼻の先にブラ下げて歩くとよく匂うぜ」
「叶わねえなア」
「ところで、それをくれた綺麗な人というのは、どこの人間だえ」
「ザラの人間と一緒にするには、もったいないくらい、良い女でしたよ、親分」
「眼の色変えて乗出すのは穏やかじゃないぜ、お前に薬草の葉っばをくれるんだから、いずれ場末の生薬屋《きぐすり》の後家《ごけ》か何か」
「銭形の親分も、それは大きな見込み違いですよ、後家やおん婆《ばあ》じゃありゃしません、ピカピカするような新造《しんぞ》、つくづく江戸は広いと思いましたよ、あんな良い娘が、世間の評判にもならずに、そっと隠れているんだから」
「若くて眼鼻が揃っていると、皆んな良い女に見えるから、お前の鑑定は当てにならない」
「でも、板橋の加賀様の下屋敷隣の御薬園の娘、お玉さんばかりは別ですよ、江戸中にはずいぶん綺麗な娘もあるが、あんな後光《ごこう》の射すようなのはありゃしません、大したものですぜ」
「そんな女は、女房や情婦《いろ》には向かないぜ、悪いことを言わねえから、あんまり近寄らない方がいいぜ」
「なぜです?」
「ピカピカ後光が射して見ねえ、眩《まぶ》しくて口説《くぜつ》もなるめえ」
 銭形平次と子分の八五郎は、こう言った埒《らち》もない掛合い噺《ばなし》のうちから、肝腎の話の筋を運んで行くのでした。
「まア、真面目に聴いて下さいよ、親分。二三日前に、板橋の小峰涼庵《こみねりょうあん》先生のお薬園――百草園というんですがね、そこから、友達伝いに便りが来て、いちどは銭形の親分に来て貰いたいが、いきなりそう言ってやっても、容易には来て下さるまいから、せめて一の子分の八五郎さんに瀬踏《せぶみ》をして貰いたいという話で、滝野川の御稲荷様から弁天様にお詣りするつもりで、ちょいと寄り道をして、覗いて来ましたがね」
 八五郎の話はようやく本題に入りました。
「で、弁天様は板橋の百草園に引越して、お前にありがたい薬草を下すったという筋か」
「先を潜《くぐ》っちゃいけません、板橋の方は生きた弁天様で、『ま、八五郎親分、よく来て下すったわねエ』とにっこりした」
「とたんにお前はフラフラになった」

……「百草園の娘」冒頭

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