「銭形平次捕物控(5)」

野村胡堂

ドットブック版 110KB/テキストファイル 75KB

400円

呉服問屋貫兵衛の涼み船ではおおはしゃぎ。貫兵衛はころをみてオランダ渡りの赤酒を全員に振舞う。ほどなく酒をくらった連中はみな腹をかかえて笑い出し、やがて踊り狂う。そして悲劇が…この「笑い茸」のほか、「正月の香り」「麝香の匂い」「十七の娘」「刑場の花嫁」の5編をあわせ収録。
立ち読みフロア
 伽羅大尽《きゃらだいじん》磯屋貫兵衛《いそやかんべえ》の涼み船は、隅田川を漕ぎ上って、白鬚《しらひげ》の少し上、川幅の広いところを選《よ》って、中流に碇《いかり》をおろしました。わざと気取った小型の屋形船の中は、念入りに酒が廻って、この時もうハチ切れそうな騒ぎです。
「さア、みんな見てくれ、こいつは七平の一世一代だ――おりん姐さん、鳴り物《なりもの》を頼むぜ」
 笑い上戸《じょうご》の七平は、尻《しり》を端折ると、手拭をすっとこ冠りに四十男の恥も外聞もなく踊り狂うのでした。
 取り巻きの清五郎は、芸者のお袖を相手に、ヒッきりなしに拳《けん》を打っておりました。貫兵衛の義弟で一番若い菊次郎はそれを面白いような苦々しいような、形容のしようのない顔をして眺めております。
 伽羅大尽の貫兵衛は、薄菊石《うすあばた》の醜《みにく》い顔を歪《ゆが》めて、はらの底から一座の空気を享楽している様子でした。三十五という脂《あぶら》の乗り切った男盛りを、親譲りの金があり過ぎて、呉服太物《ごふくふともの》問屋の商売にも身が入らず、取巻き末社を引きつれて、江戸中の盛り場を、この十年間飽きもせずに押し廻っている典型的なお大尽です。
「卯八《うはち》、あの酒を持って来い」
 大尽の貫兵衛が手を挙げると、
「へエ――」
 爺やの卯八――その夜のお燗番《かんばん》――は、その頃は飛切り珍しかったギヤーマンの徳利《とっくり》を捧げて艫《とも》から現れました。
「さて皆の衆、聴いてくれ」
 貫兵衛は徳利を爺やから受取って、物々しく見栄《みえ》を切ります。
「やんややんや、お大尽のお言葉だ。みんな静かにせい」
 清五郎は真っ赤な顔を挙げて、七平の踊りとおりんの三味線を止めさせました。
「この中には、和蘭《オランダ》渡りの赤酒《せきしゅ》がある。ほんの少しばかりだが、みんなにわけて進ぜたい。さア、年頭《としがしら》の七平から」
 貫兵衛はそう言いながら、同じギヤーマンの腰高盃《こしだかさかずき》をとって、取巻きの七兵に差すのでした。
「有難いッ、伽羅大尽の果報にあやかって、それでは頂戴仕るとしましょうか、――おっと散ります、散ります」
 野太鼓《のだいこ》を家業のようにしている巴屋《ともえや》七平は、血のような赤酒を注《つ》がせて、少し光沢《つや》のよくなった額《ひたい》を、ピタピタと叩くのです。
「次は清五郎」
 これは主人と同年輩の三十五六ですが、雑俳《ざっぱい》も、小唄も、嘘八百も、仕方噺《しかたばなし》も、音曲もいける天才的な道楽指南番で、七平に劣らず伽羅大尽に食い下がっております。
「へエ――和蘭渡りの葡萄《ぶどう》の酒。話には聞いたが、呑むのは初めて――それでは頂戴いたします、へエ――」
 美しいお蔦《つた》にお酌をさせて、ビードロの盃になみなみと注いだ赤酒。唇《くちびる》まで持って行って、フト下へ置きました。
「どうした、清五郎」
 少し不機嫌な声で、貫兵衛はとがめます。
「いえ、少し気になることが御座います」
「なんだ」
「あれを――気が付きませんか、橋場《はしば》のあたりでしょう。闇の中に尾を引いて、人魂《ひとだま》が飛びましたよ」
「あれッ」
 女三人は思わず悲鳴をあげました。
「おどかしてはいけない、たぶん四つ手駕籠の提灯《ちょうちん》かなんかだろう」
 と貫兵衛。
「そんな事かもわかりません、――ああ結構なお酒でございました、――もう一杯頂戴いたしましょうか」
 清五郎は綺麗に飲み干した盃を、お蔦《つた》の前に突き付けるのです。
「それはいけない、酒にも人数にも限りがある。その次は菊次郎だ」
「そう仰しゃらずにもう一杯、――頬っぺたが落ちそうですよ」
「いや、重ねてはいけない、それ」
 貫兵衛が目配《めくば》せすると、お蔦は清五郎の手から盃をさらって、菊次郎のところへ持って行きました。貫兵衛の義理の弟で三十前後、これは苦味走ったなかなか良い男です。
 菊次郎もどうやら一杯呑みました。義兄が秘蔵の赤酒は、こんな時でもなければ口に入りそうもありません。
 続いて芸者のおりんとお袖、お蔦は呑む真似だけ。大方空《から》っぽになった徳利は、杯を添えて艫のお燗番のところに返されました。

……「笑い茸」冒頭

購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***