「銭形平次捕物控(6)」

野村胡堂

ドットブック版 93KB/テキストファイル 56KB

300円

東海坊という修験者が道灌山に人を集めて「火伏せ」の行。だが舞台でのクライマックスに東海坊は火に巻かれて焼死した。平次は「殺し」と断定した…この「火遁の術」のほか、「青い帯」「酒屋忠僕」「隠し念仏」のあわせて4編を収録。
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「親分、良い陽気じゃありませんか。植木の世話も結構だが、たまには出かけてみちゃどうです」
 ガラッ八の八五郎は、懐ろ手を襟から抜いて、虫歯《むしば》が痛い――て恰好に頬を押えながら、裏木戸を膝で開けてノッソリと入って来ました。
「朝湯の帰りかえ、八」
 平次は盆栽の世話を焼きながら、気のない顔を挙げます。
「ヘッ、御鑑定《ごかんてい》どおり。手拭が濡れているんだから、こいつは銭形の親分でなくたって、朝湯と判りますよ」
「馬鹿だなあ、手拭は俺から見えないよ、腰へブラ下げているんだろう、――番太や権助じゃあるめえし、いい若え者が、手拭を腰へブラ下げて歩くのだけは止しなよ、みっともねえ」
「こいつは濡れているから肩に掛けられませんよ、――いつか手に持って歩くと、不動様の縄じゃあるめえ、そんな不粋《ぶすい》な恰好は止すがいい――って親分に小言を言われたでしょう」
「よく覚えていやがる」
「躾《しつけ》の良い児は違ったもので――」
「手拭を良く絞らないからだよ、海鼠《なまこ》のようにして歩くから扱いにくんだ。第一その鬢《びん》がグショ濡れじゃないか、水入りの助六が迷子になったようで、意気過ぎて付合いきれないぜ」
「あ、これですかえ。なるほど朝湯の証拠が揃ってやがる」
 ガラッ八は腰から海鼠《なまこ》のような手拭を抜いて、鬢のあたりをゴシゴシとやりました。
「自棄《やけ》に擦《こす》ると、小鬢が禿《は》げ上がって、剣術使いのようになるぜ」
「髪のほつれは、枕のとがよ――と来た」
「馬鹿だなあ」
 平次は腰を伸ばして、しばらくはこの楽天的な子分の顔を享楽しておりました。
「ところで親分」
「なんだい」
「不動様で思い出したが、今日は道灌山《どうかんやま》に東海坊が火伏《ひぶ》せの行《ぎょう》をする日ですよ。大変な評判だ、行って見ませんか」
「御免蒙ろうよ。どうせ山師坊主の興行に極っているようなものだ。行ってみるとまたとんだ殺生をすることになるかも知れねエ」
 平次は御用聞きのくせに、引込み思案で、弱気で、十手捕縄にモノを言わせることが嫌で嫌でならなかったのです。
「火伏せの行だから、火難《かなん》除けになりますよ」
「家は借家だよ。焼けたって驚くほどの身上《しんしょう》じゃねえ」
「呆れたもんだ――家は借家でも、火の車には悩まされ続けでしょう。こいつも火伏せの禁呪《まじない》でどうかなりゃしませんか」
 ガラッ八は自分の洒落《しゃれ》に堪能して頤《あご》の下から出した手で、しきりに顔中を撫でまわしております。
「なるほど、そいつは耳寄りだ。火の車除けの有難いお護符《まもり》が出るとは知らなかったよ。ブラリブラリと行ってみようか、八」
「有難てえ。今日の道灌山はうんと人出があるから、なんか面白いことがあるような気がしてならねえ」
「火除けの行だから、キナ臭かったんだろう」
「違げえねえ」
 道灌山へ平次と八五郎が向ったのは、悠々《ゆうゆう》と昼飯を済ましてから、火伏せの行が始まるという申刻《ななつ》時分には、二人は無駄を言いながら若葉の下の谷中道を歩いておりました。

……「火遁の術」冒頭

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