「銭形平次捕物控(9)」

野村胡堂

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340円

「へッへッ、へッ、へッ、近ごろは暇で暇で困りゃしませんか。親分」「馬鹿だなア、人のつら見て、いきなりタガがはずれたように笑い出しやがって」……お馴染み平次、本巻には「花見の果て」「生き葬い」「小便組貞女」「遠眼鏡の殿様」「妾の貞操」の5編を収録。
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 菊屋伝右衛門の花見船は、両国稲荷の下に着けて、同勢男女十幾人、ドカドカと広小路の土を踏みましたが、
「まだ薄明るいじゃないか、橋の上から、もういちど向島を眺めながら、一杯やろう」
 誰やらそんなことを言うと、一日の行楽をまだ堪能《たんのう》し切れない貪婪《どんらん》な享楽追及者たちは、
「そいつは一段と面白かろう、酒が残っているから、瓢箪《ひょうたん》に詰めて、もういちど橋の上に引返そう、人波に揉まれながら、欄干《らんかん》の酒盛なんざ洒落《しゃ》れているぜ」
 そんな事を言いながら、気をそろえて橋の上に引返したのです。
 暮れ残る夕暮に、大川の水面を薄紫に照らして、向島のあたりは花の霞のうちに、さながら金砂子《きんすなご》を撒《ま》いたよう。
 橋の上は水の面《おも》も見えぬまでに、さんざめく船と船、これから夜桜見物に漕ぎ出るのでしょう。まことに『上見て通れ両国の橋』と言った、低俗な道歌も、今宵だけはピタリとした気分です。
「なるほどこいつは洒落ているぜ、サアサア店を拡げたり拡げたり」
 欄干に銘々の杯を置いて、乙女達が人波に揉まれながら、その間を注《つ》いでまわります。
 両国橋の上には、いろいろの物売りが陣を布いて、橋の上から水肌まで、桃の皮を剥《む》いて垂らした時代です。交通整理も何もあったものでなく、橋下の船の中の賄いと呼応して、庶民歓楽の立体図をそのまま、それはまことに、乱雑の中の秩序、無作法の中の美しさとも言うべき見物でした。
 菊屋伝右衛門は、横山町の大きな金貸しで、五十年輩の酒肥りのした老人ですが、それを囲んで、欄干に猪口《ちょこ》を据えた一族郎党は、番頭の孫作、手代の伴造、遠縁の清五郎、隣の小料理屋――柳屋の主人幸七、その女房で良い年増のお角、出入りの鳶頭《とびがしら》文次、それに若くて綺麗なところでは、娘のお吉、若旦那の許嫁のお延《のぶ》、下女のお市、御近所の娘お六、お舟のともがらを加えてざっと十五人。
 しばらく薄れゆく夕明かりを惜《おし》みながら、差しつ押えつ、欄干の饗宴は果てしもなくつづくのでした。往来の人達は、少し苦々《にがにが》しく、この放縦極まる酒宴を眺めて行きますが、当人達はさらに驚く様子もなく、わざと突き当ったり、押しのめしたりする往来の人と、威勢の良い悪口を応酬《おうしゅう》しながら、盃の献酬は、お互いの顔の見わかぬまで続きました。
 やがて四方《あたり》が真っ暗になって、橋の上の人波もやや斑《まだら》になると、菊屋の同勢もさすがに酒も興も尽きます。
「さて、そろそろ帰るとしようか」
 主人の伝右衛門が声を掛けた時でした。花見帰りらしい幾十人かの大きい団体が、揉みに揉んでドッと本所の方から橋の上へ襲って来たのです。
「危ない危ない」
「退いた退いた」
 除《よ》ける間もなく、菊屋の同勢を押し包むように揉んで、西両国の方へ、どっと引いて行きます。
「なんということだ」
「ずいぶん乱暴な人達ねエ」
 女達が不平たらたら、衣紋《えもん》や髪飾りを直していると、主人の伝右衛門が、
「ウーム」
 恐ろしいうめき《ヽヽヽ》声とともに、ガクリと欄干の上に崩折《くずお》れたのです。
「旦那、どうしました」
 それを抱き上げるように覗き込んだのは、番頭の孫作と隣家の主人――柳屋の幸七でした。
「灯《あかり》、灯だ、――旦那がどうかなすったようだ」
 幸七が声を絞《しぼ》りましたが、さてここに灯を用意しているはずもありません。
 だが、遠縁の掛人《かかりゆうど》清五郎と、鳶頭の文次は早くも橋番所に駈けて行きました。その間に柳屋の幸七は、
「旦那、どうしました。気分でも悪いんですか、旦那」
 後ろから抱き上げると、何やらぬらり《ヽヽヽ》と手に付くもの、わずかに残る薄明りにその手を透《すか》して見ると、
「あッ、血」
 驚いたのも無理はありません。両掌《りょうて》から腕へかけて、生血でべっとり。
「何? 血?」
と孫作。
「大変ッ、旦那を突いて逃げた奴があるんだ」
 幸七は年甲斐もなくひどく取り乱しておりましたが、思い直した様子で、
「灯《あかり》、灯だ」
 提灯を持って行く人を呼びかけます。
 だが、この時代の人はひどく掛り合いを恐れたもので、事件が容易でないと見ると、一度集った弥次馬も、バラバラと逃げ腰になってしまいます。
「仕様がないなア、怪我人があるんだ、灯を貸して下さい」
 逃げて行く二三人を追い掛けた幸七は、五六間も追っ駈けて、ようやく提灯を一つ借りて来ると、惨憺《さんたん》たる現場がマザマザと照らし出されるのでした。
「あッ旦那」
「確《しっか》りして下さい、旦那」
 番頭の孫作と柳屋の幸七は、左右から抱き起しましたが、主人伝右衛門は、一塊《いっかい》のボロ屑《くず》のように欄干に蹲《うず》くまって、もはや息があろうとも覚えず、生命の最後の痙攣《けいれん》が、わずかにその四肢《しし》に残るだけです。
 傷は左の胸らしく、そこから噴出した血は下半身を染めて、橋板の上に流れておりますが、この凄まじい光景を取巻くのは、菊屋の同勢だけで、そこにはそんな大それた事をしそうな顔もありません。
「退いた退いた」
 そこへ駈け付けたのは、清五郎と文次を案内に、橋番所の役人と、この辺を縄張りにして、花時の警戒に当っていたガラッ八の八五郎、それに弥次馬の一隊でした。

……「花見の果て」冒頭

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