「銭形平次捕物控(10)」

野村胡堂

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340円

「親分、あっしもいよいよ来年は三十ですね」ガラッ八の八五郎は、つくづくこんなことを言って、深刻な顔をするのでした。「馬鹿だなア、松がとれたばかりじゃないか。そんなのは年の暮れに出て来るせりふじゃないか」……本巻には読み応えのある「猿蟹合戦」「夕立の女」と「艶妻伝」の3編を収録。
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「日本一の面白い話があるんですが、親分」
 ガラッ八の八五郎、こみ上げる笑いを噛みしめながら、ニヤリニヤリと入って来るのです。
 六月になったばかり、明神様の森がからりと晴れて、ひさし振りの好い天気。平次は襷《たすき》がけにはたきを持って、梅雨《つゆ》中とじ込めた家の中の湿気《しっけ》と埃《ほこり》を、威勢よく掃き出しておりました。
「顔の紐のゆるんだのが、路地を入って来ると思うと、それが外ならぬ八五郎さ。なるほどそんなおもしろい相好《そうごう》で歩く人間は、日本中にも滅多にはねえはずだ」
「あっしのことじゃありませんよ、親分」
「まだ外に、ニタニタ笑いながら歩く人間があるのか」
「弱るなア、――笑いながら歩く話じゃありませんよ。火傷《やけど》をした話なんで」
「火傷をね」
「ただの火傷じゃありませんよ。真夏に股火鉢《またひばち》なんかやって、男の急所に大火傷を拵《こしら》えたと聴いたら、親分だって、それね、可笑しくなるでしょう」
「フ、フ、フ、妙なことを嗅ぎ出して来るんだね、お前という人間は。金《きん》を焼いた話なら町方は筋違いさ。そいつは金座役人の係りだ。御勘定奉行へ訴えるのが順当じゃないか」
「落し話じゃありませんよ、親分」
 平次と八五郎は、いつでもこんな調子で筋を運ぶのです。
「いったいどこの誰がそんな間抜けな怪我をしたんだ」
「間抜けどころか、相手は江戸一番と言っても、二番とは下らない塩っ辛い人間なんだからお話の種になるでしょう」
「ヘエー、その昔噺《むかしばなし》は面白そうだね」
 平次は襷を外して、火のない長火鉢の前へ来ると、煙管の雁首《がんくび》を延ばして、はるかかなたの挽物細工《ひきものざいく》の貧乏臭い煙草入れを引き寄せるのでした。
「親分でも掃除なんかするんですか。襷なんか綾取って、まるで敵《かたき》でも討ちそうな恰好ですぜ」
「忙しいときは、掃除も手つだえば、飯も炊くよ。よく見習っておくがいい。お前もいつまでも独身《ひとりみ》じゃあるめえ、あんまり女房に骨を折らせるばかりが、男の見得じゃないよ」
「ヘッ、相済みません」
 首を縮めた弾《はず》みに、八五郎はペロリと舌を出すのです。
「ところで、お前の話はなんだっけ」
「忘れちゃいけませんよ、男の急所を焼いた話――ウフ」
「そうそう」
「春木町の浪人、金貸しでは江戸中にも何人と言われた、綱田屋《つなたや》五郎次郎を親分も御存じでしょう」
「知ってるとも、武家相手に高利の金を貸して、一代にびっくりするほどの身上《しんしょう》を拵えた男だ。札差にまで見放されたお武家が、綱田へ頼みに行くと、二つ返事で貸してくれるってね。その代り返さなきゃ組頭かお取締りの若年寄りに訴え出る。否も応もない、まごまごすると家名に拘《かか》わるか、こじれると腹切り道具になるから、女房や娘を抵当にしても返すというじゃないか」
 その頃江戸中に横行した、悪質な高利貸の一人で、武家崩れの綱田屋五郎次郎は、人間が穏かで上品で、上役人にも通りがよく、いちおう話のわかる男でしたが、それだけに奸佞邪智《かんねいじゃち》で、一と筋縄では行かない人間として平次に記憶されております。
「その綱田屋が変な火傷をしたんだから、好い気味みたいなもので」
「人の災難を笑っちゃいけない」
「でも、あの男は茶の湯なんかやるんですってね。高利の金で儲けちゃ、恐ろしく高い道具を集めて、青黄粉《あおきなこ》のガボガボでしょう」
「青黄粉とは違うよ」
「だから綱田屋の主人の部屋には炉が切ってある、――もっともあの五郎次郎というのは、若い時の道楽が祟《たた》ってひどい疝気《せんき》だそうで、夏でもときどきは股火鉢で温める。奉公人は多勢いるが、口の悪いのは蔭へ廻ると、主人とも旦那とも言いやしません――夏火鉢――で通るんだそうで」
「お前の話を聴いて居ると、俺は横っ腹が痛くなるよ。よくもそんな馬鹿な話ばかり仕入れて来たものだ」
「これからが話の本筋ですよ、親分、――昨日はまた妙に薄寒かったでしょう。梅雨《つゆ》明けには、よくあんな天気があるんですってね。あっしのような達者な人間でさえ冷々するくらいだから、疝気持ちの綱田屋五郎次郎、下っ腹がキリキリ痛んで叶わない、茶を入れるから――とかなんとか、体裁の良いことを言って、炉に火を入れさして、さっそくの股火鉢だ。少しばかり良い心持になって、眠気がさして来ると、いきなりドカンと来た」
「なんだえ、それは?」
「炉の隅に、地雷火《じらいか》が仕掛けてあったんですよ。程よいところで口火に火が廻ると、五徳も鉄瓶《てつびん》も、灰も炉もハネ飛ばして、ガラガラドシンと来た。いやその凄かったことと言ったら」
 八五郎の話には身振り手振りが入るのでした。
「炉の中に地雷火なんか潜り込むわけはないじゃないか、癇癪玉《かんしゃくだま》かなんかだろう、――もっとも両端へ節の付いた竹筒を埋めて置いても、それくらいの業《わざ》はやるぜ」
「そんな生やさしい物じゃありませんよ。綱田屋の主人が炉の真上にいたら、天井へ叩き付けられたかも知れないというくらいで」
「で?」
「綱田屋主人、命は無事だったが、股から上の火傷《やけど》だ、――悪戯者《いたずらもの》は家の中に居るに違げえねえ、引っ捉えて八つ裂きにしてやる――という腹の立てようだが、見渡したところ、娘も倅も居候も、多勢の奉公人も皆んな良い子ばかり。そんな大それた悪戯をしそうな顔もいないから、恥を忍んであっしに来てくれというわけで」
「お前は行って見たのか」
「行って来ましたよ。出入りの者から叔母さんへ頼みに来たんで」
「で、どういう鑑定だ」
「一向わかりませんよ。家の者には違げえねえが」
「心細い野郎だな」
「念のために部屋の灰と埃を掃き寄せた中から、形のあるものを少し拾い集めて来ましたがね」
 八五郎はそう言いながら、懐中《ふところ》を探って何やら取出すのです。
「なんだえ、それは」
「部屋の片付けも済まないところへ行って、ともかくこれだけは集めて来ましたがネ」
 鼻紙をひろげると、中から出て来たのは、灰と埃と炭の屑と、そして少しばかりの糊《のり》で固めた反古紙《ほごがみ》と、竹の片《きれ》と、串のようなものと、そして堅く捻った紐の一片だったのです。
「これは大したものだよ、八。良いものを持って来てくれた」
 平次はすっかり夢中になって、その懐ろ紙の中の、得体の知れない雑物を選りわけております。
「でしょう、――これが銭形流のやり口なんで。ヘッ」
 平次に褒められると、八五郎の低い鼻は蠢《うごめ》きます。
「これは、お前、花火じゃないか」
「ヘエ」
「両国の川開きなどで使う、打ち揚げ花火だよ。炉の中でこいつに爆《は》ねられてたまるものじゃない、――いやもっと小さい、早打ちの小玉だろう」
「ヘエ、大変なものを仕込んだものですね」
 炉の中の花火玉、それは実に奇想天外の悪戯です。
「こんなものを拵えるのは、江戸では両国の鍵屋一軒だ。お前ちょいと行って調べて見るがいい。花火玉が紛《まぎ》れて外へ出るようなことはないか、それだけのことだ」
「親分は?」
「俺はほかに仕事があるよ。それくらいのことならお前一人でたくさんだ。手に了えなかったらそう言って来るがいい、悪戯者は直ぐわかるよ」
 平次は至って手軽に考えました。が、それは大変な間違いで、思いも寄らぬ大きな事件に発展しそうとは、さすがの平次も全く予想しなかったのです。

……「猿蟹合戦」冒頭

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