「銭形平次捕物控(12)」

野村胡堂作

ドットブック版 102KB/テキストファイル 59KB

300円

本巻収録作品

◆痣《あざ》の魅力
◆雪の精
◆くるい咲き
◆買った遺書《かきおき》

立ち読みフロア
 昼頃から降り続いた雪が、宵に小やみになりましたが、それでも三寸あまり積って、今戸《いまど》の往来もハタと絶えてしまいました。
 越後屋佐吉《えちごやさきち》は、女房のお市と差しむかいで、長火鉢《ながひばち》に顔をほて《・・》らせながら、二三本あけましたが、寒さのせいか一向発しません。
「銭湯へ行くのはおっくうだし、按摩《あんま》を取らせたいにも、こんな時は意地が悪く笛も聞えないね」
「お前さん、そんな事を言ったって無理だよ。この雪だもの、目の不自由な者なんか、歩かれはしない」
 そんな事を言いながら、ちょうど三本目の雫《しずく》を切った時でした。ツイ鼻の先の雨戸をトン、トン、トンと軽く叩く者があったのです。
「おや――」
 お市は膝を立て直しました。宵とはいってもこの大雪に往来の方へ向いた、入口の格子《こうし》を叩くならまだしも、川岸《かし》へ廻って、庭の木戸から縁側の雨戸を叩く者があるとすると、全くただごとではありません。
「どうしたんだい」
 と、佐吉。
「雨戸を叩く者があるんだよ。こんな晩にいやだねえ、本当に」
「開けてみな、貉《むじな》や狸《たぬき》なら、早速煮て食おうじゃないか。酒はまだあるが、肴《さかな》と来た日には、ろくな沢庵《たくあん》もねえ」
 佐吉は少し酔っているせいもあったでしょう。爪楊子《つまようじ》で歯をせせりながら、太平楽を極めますが、いくらか酒量の少ないお市は、さすがに不気味だったとみえて、幾度も躊躇《ためら》いながら、それでも立ち上がって、雨戸へ手を掛けました。
 同時に、もう一度トン、トン、トンと軽く叩く音、続いて若い女の声で、
「ここを開けて下さいな――」
 と、大地の底から響くような細い声が、ハッキリ雨戸の外に聞えるのです。
「誰だえ」
 お市は心張棒《しんばりぼう》をはずすと、思い切ってガラリと開けました。
 角兵衛獅子《かくべえじし》の親方を振り出しに、女衒《ぜげん》の真似《まね》をやったり、遊び人の仲間へ入ったり、今では今戸に一戸を構えて、諸方へ烏金《からすがね》を廻し、至って裕福に暮らしている佐吉の女房です。鬼の亭主に鬼の女房で、大概《たいがい》の物に驚くような女ではありませんが、この時ばかりは全くギョッとしました。
 外は真っ白――。
 人間は愚か、貉《むじな》も狸もいる様子はなかったのです。
 好い加減に積った雪は、狭い庭を念入りに埋めて、その上に薄月が射しているのですから、その辺には、物の隈もありません。庇《ひさし》の下はほんのばかり埋め残してありますが、物馴れたお市の眼には、そこに脱ぎ捨ててある、沓脱《くつぬぎ》の下駄までハッキリ読めるのです。
「誰もいはしない、変だねえ」
「そんな事があるものか、今も人の声がしていたじゃないか」
「そう言ったってお前さん、猫の子もいないよ」
 お市はそう言いながら、戸袋に左手でつかまったまま、まだサラサラと降る雪の中へ、何の気もなく顔を突き出したのでした。
「あッ」
 恐ろしい悲鳴。
 驚いて佐吉が立ち上がった時は、お市の身体は、もんどり打って、雪の庭へ――、真逆様《まっさかさま》に落ちてしまったのでした。
「何て間抜けな事をするんだ。怪我《けが》をしないか」
 佐吉はそう言いながら、縁側へ飛び出して差しのぞくと、お市の身体は雪の中に転落して、ノタ打ち廻りながら、
「お化《ば》けだッ」
 辛《から》くもそう言った切り、がっくり崩折《くずお》れてしまった様子です。見ると、頸筋から噴出《ふきだ》した恐ろしい血潮が、お市の半身と、その辺の雪を物凄まじく染めておりますが、見渡したところ、縁の下にも、庭の中にも、お化けは愚《おろ》か、人間の片《かけ》らも見えません。
 佐吉はそれでも、ようやく気を取り直して、女房の体を縁側へ抱き上げましたが、いつの間にやら、行灯《あんどん》を蹴飛《けと》ばして、灯りを消してしまった事に気が付きました。
「お駒、大変だッ、灯を持って来い」
 少し離れているお勝手へ怒鳴《どな》ると、
「ハ、ハイ」
 居眠りでもしていたらしい、下女のお駒は、手燭《てしょく》を持って飛び込んで来ましたが、その時はもう、何もかも済んでおりました。お市はすっかりこと切れて、三十女の豊満な肉体を、浅ましく歪《ゆが》めたまま夫の膝に抱き上げられ、越後者の、身体だけは丈夫そうな下女のお駒は、手燭を持ったまま、ガタガタ顫《ふる》えているのでした。

……「雪の精」冒頭

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