「銭形平次捕物控(14)」

野村胡堂作

ドットブック版 115KB/テキストファイル 72KB

340円

「八、なんか良い事があるのかい、たいそう嬉しそうじゃないか」
「ヘッ、それほどでもありませんよ親分、今朝はほんの少しばかり寝起きがいいだけで――」
 ガラッ八の八五郎は、そう言いながらも湧き上がってくる満悦《まんえつ》を噛み殺すように、ニヤリニヤリと長んがい顎《あご》を撫で廻すのでした。
「叔母さんからまとまったお小遣いでももらった夢をみたんだろう」
「そんなケチなんじゃありませんよ、はばかりながら濡れ事の方で、ヘッ、ヘッ」
「朝っぱらから惚気《のろけ》の売り込みかい、道理で近頃は姿を見せないと思ったよ。ところで相手は誰だ、横町の師匠か、羅生門河岸《らしょうもんがし》の怪物か、それとも煮売屋のお勘子か――」……平次とガラッ八との絶妙なコンビが織りなす江戸の風物詩。

本巻収録作品

◆雪の夜
◆雛の別れ
◆娘の役目
◆子守唄
◆権三は泣く

野村胡堂1882〜1963)岩手県生まれ。盛岡中学から東大法科に入学したが、父親の死去にともなって退学、報知新聞社にはいって政治部記者となった。そのころから胡堂の筆名で創作に手を染めたが、昭和6年(1931)、「オール読物」創刊時に捕物帳執筆を頼まれて実現したのが「銭形平次捕物控」だった。「平次」は以後26年間つづき、長短あわせて382編という膨大なシリーズとなった。「わたしの捕物帖の特徴は、まず容易に罪人をつくらないこと、町民と土民に愛情をもったこと、侍や通人は徹底的にやっつけたこと、そして明るい健康的な捕物にしようと心掛けたことだろう」こう胡堂は語っている。「あらえびす」の名で知られたクラシック音楽の評論家でもあった。

立ち読みフロア
 銭形平次が門口の雪をせっせと払っていると、犬っころのように雪を蹴上げて飛んで来たのはガラッ八の八五郎でした。
「親分、お早う」
「なんだ、八か。大層あわてているじゃないか」
「あわてるわけじゃないが、初雪が五寸も積っちゃ、ジッとしている気になりませんよ。雪見と洒落《しゃれ》ようじゃありませんか」
 そう言う八五郎は、頬冠《ほおかむ》りに薄寒そうな擬《まが》い唐桟《とうざん》の袷《あわせ》、尻を高々と端折って、高い足駄を踏み鳴らしておりました。雪はすっかり霽《は》れて、一天の紺碧《こんぺき》、少し高くなった冬の朝陽が、真っ白な屋根の波をキラキラと照らす風情は、寒さを気にしなければ、全く飛び出さずにはいられない朝でした。
「たいそう風流なことを言うが、小遣いでもふんだんにあるのか」
「その方は相変らずなんで」
「心細い野郎だな。空《から》ッ尻《けつ》で顫えに行こうなんて、よくねえ量見だぞ」
「ヘッヘッ」
「いやな笑いようだな、雪見に行こうてエ場所はどこだ」
「山谷ですよ」
「山谷?」
「山谷の東禅寺《とうぜんじ》横で」
「向島とか、湯島とか、明神様の境内《けいだい》なら解っているが、墓と寺だらけな山谷へ雪を見に行く奴はあるめえ、そんなことを言って、また誘《さそ》い出す気なんだろう」
「図星ッ、さすがに銭形の親分、エライ」
 八五郎はポンと横手を打ったりするのです。
「馬鹿野郎、人様が見て笑ってるじゃないか。往来へ向いて手なんか叩いて」
「実はね親分、山谷の寮に不思議な殺しがあったんで」
「あの辺のことなら、三輪の兄哥《あにい》に任せて置くがいい」
「任せちゃ置けねえことがあるんですよ。殺されたのは吉原の佐野喜の主人弥八ですがね」
「あ、因業《いんごう》佐野喜の親爺か、この春の火事で、女を三人も焼き殺した楼《うち》だ。下手人が多過ぎて困るんだろう」
「多過ぎるなら文句はねエが、三輪の親分は、たった一人選りに選って田圃《たんぼ》の勝太郎を挙げて行きましたよ」
「えッ」
 田圃の勝太郎は、まだ二十七八の若い男で、もとは八五郎の下っ引をしていたのを、手に職があるのに、岡っ引志願でもあるまいと、今から二年前、平次が仲間に奉加帳《ほうがちょう》を廻して足を洗わせ、田圃の髪結床《かみゆいどこ》の株を買って、妹のお粂《くめ》と二人でささやかに世帯を持っていたのでした。
「妹のお粂が飛んで来て、けさ三輪の親分が踏み込んで、兄さんを縛って行ったが、兄がゆうべ一と足も外へ出なかったことは、一つ屋根の下に寝ていたこの私がよく知っている。夫婦約束までした嬉し野が焼け死んでから、兄さんはひどく佐野喜の主人夫婦を怨《うら》んではいたが、そんなことで人なんか殺す兄さんでないことは、八五郎さんもよく知っていなさるでしょう。銭形の親分さんにもお願いしてどうぞ兄さんを助けて下さい――とこういう頼みなんで」
「なんだ、そんなことなら早くそう言やいいのに」
「それに三輪の親分だが、――殺しが知れてから半刻経たないうちに下手人を挙げたのは、自分ながら鮮やかな手際だったよ。銭形が聴いたらさぞ口惜しがるだろう――って言ったそうで」
「そんなことはどうでも構わない。出かけようか八。お静、羽織を出しな」
「有難い」
 八五郎はすっかり有頂天《うちょうてん》になって、平次の先に立って犬っころのように雪道を飛びました。

……「雪の夜」冒頭

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