「銭形平次捕物控(17)」

野村胡堂作

ドットブック版 85KB/テキストファイル 56KB

340円

「親分、凄いのが来ましたぜ。ヘッ」
「何が来たんだ。大家か借金取りか、それともモモンガアか」
 庭木戸を弾《はじ》き飛ばすように飛び込んで来たガラッ八の八五郎は、相変らず縁側にとぐろを巻いて、閑々《かんかん》と朝の日向を楽しんでいる銭形平次の前に突っ立ったのです。
「そんなイヤな代物《しろもの》じゃありませんよ。その辺中ピカピカするような良い新造」
「馬鹿だなア、涎《よだれ》でも拭きなよ、みっともない、――お客様なら大玄関から通すんだ。いきなり木戸を開けて、バァと長んがい顎《あご》を突き出されると、肝《きも》をつぶすじゃないか」
 口小言をいいながらも平次は、煙草盆をブラ下げて、部屋の中へ入りました。平次のいわゆる大玄関へは女房のお静が出て、物柔らかに女客を招じ入れた様子です。……お馴染み平次とガラッ。

本巻収録作品

◆花見の仇討
◆蜘蛛の巣
◆妹の扱帯《しごき》
◆嘆きの幽沢

野村胡堂1882〜1963)岩手県生まれ。盛岡中学から東大法科に入学したが、父親の死去にともなって退学、報知新聞社にはいって政治部記者となった。そのころから胡堂の筆名で創作に手を染めたが、昭和6年(1931)、「オール読物」創刊時に捕物帳執筆を頼まれて実現したのが「銭形平次捕物控」だった。「平次」は以後26年間つづき、長短あわせて382編という膨大なシリーズとなった。「わたしの捕物帖の特徴は、まず容易に罪人をつくらないこと、町民と土民に愛情をもったこと、侍や通人は徹底的にやっつけたこと、そして明るい健康的な捕物にしようと心掛けたことだろう」こう胡堂は語っている。「あらえびす」の名で知られたクラシック音楽の評論家でもあった。

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「親分」
 ガラッ八の八五郎は息せき切っておりました。続く――大変――という言葉も、容易には唇に上りません。
「何だ、八」
 飛島山《あすかやま》の花見帰り、谷中へ抜けようとする道で、銭形平次は後ろから呼び止められたのです。飛鳥山の花見の行楽に、埃《ほこり》と酒にすっかり酔って、これから夕陽を浴びて家路を急ごうというとき、跡片づけで少し後れたガラッ八が、毛氈《もうせん》を肩に引っ担いだまま、泳ぐように飛んで来たのでした。
「親分、――引っ返して下さい。山で敵討《かたきうち》がありましたよ」
「何?」
「巡礼姿の若い男が、虚無僧《こむそう》に斬られて、山は煮《に》えくり返るような騒ぎで」
「よし、行ってみよう」
 平次は少しばかりの荷物を町内の人達に預けると、獲物を見つけた猟犬のように、飛鳥山へ取って返します。
 柔らかな夕風につれて、どこからともなく飛んでくる桜の花片、北の空は紫にたそがれて、妙に感傷をそそる夕です。
 二人が山へ引っ返した時は、全く文字どおりの大混乱でした。異常な沈黙の裡《うち》に、掛り合いを恐れて逃げ散るもの、好奇心に引きずられて現場を覗《のぞ》くもの、右往左往する人波が、不気味な動きを、際限もなく続けているのです。
「退《の》いた退いた」
 ガラッ八の声につれて、人並はサッと割れました。その中には早くも駈けつけた見廻り同心が、配下の手先に指図をして、斬られた巡礼の死骸を調べております。
「お、平次じゃないか。ちょうどよい、手伝ってくれ」
「樫谷様《かしやさま》、――敵討だそうじゃございませんか」
 平次は同心樫谷三七郎の側に差し寄って、踏み荒した桜の根方に、紅《あけ》に染んで崩折れた巡礼姿を見やりました。
「それが不思議なんだ、――敵討と言ったところで、花見茶番の敵討だ。竹光を抜き合せたところへ、筋書どおり留め女が入って、用意の酒肴《さけさかな》を開こうと言う手順だったというが、敵の虚無僧になった男が、巡礼の方を真刀《しんとう》で斬り殺してしまったのだよ」
「ヘエ――」
 平次は同心の説明を聴きながらも、巡礼の死体を丁寧に調べてみました。傘ははね飛ばされて、月代《さかやき》の青い地頭が出ておりますが、白粉を塗って、引き眉毛《まゆげ》、眉張りまで入れ、手甲、脚絆から、笈摺《おいずる》まで、芝居の巡礼をそのまま、この上もない念入りの扮装《こしらえ》です。
 右手に持ったのは、銀紙張りの竹光、それは斜《はす》っかいに切られて、肩先に薄傷《うすで》を負わされた上、左の胸あたりを、したたかに刺され、蘇芳《すおう》を浴びたようになって、こと切れているのでした。
「身元は? 旦那」
 平次は樫谷三七郎を見上げました。
「すぐ解ったよ、馬場の糸屋、出雲屋の若主人宗次郎だ」
「ヘエ――」
「茶番の仲間が、宗次郎が切られるとすぐ駈けつけた。これがそうだ」
 樫谷三七郎が顎《あご》で指すと、少し離れて、虚無僧が一人、留め女が一人、薄寒そうに立っているのでした。
 そのうちの虚無僧は、巡礼姿の宗次郎を斬った疑いを被《こうむ》ったのでしょう。特に一人の手先が引き添って、スワと言わば、縄も打ち兼ねまじき気色を見せております。
 次第に銀鼠色に暮れ行く空、散りかけた桜は妙に白茶けて、興も春色も褪《さ》めると見たのもしばし、間もなく山中に灯が入って、大きな月が靄《もや》の中に芝居のこしらえ物のように昇りました。
 陰惨な、そのくせ妙に陽気な、言いようもない不思議な花の山です。
「旦那、少し訊いてみたいと思いますが――」
 平次は樫谷三七郎を顧みました。
「何なりと訊くがよい」
「では」
 平次は茶番の仲間を一とわたり眺めやります。

……「花見の仇討」冒頭


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