「銭形平次捕物控(18)」

野村胡堂作

ドットブック版 103KB/テキストファイル 72KB

340円

「ヘッヘッ、親分、今晩は」
 ガラッ八の八五郎、箍《たが》のはじけた桶《おけ》のように手のつけようのない笑いを湛《たた》えながら、明神下の平次の家の格子を顎で――平次に言わせると――開けて入るのでした。それは両の手で弥蔵《やぞう》をこしらえて、格子をまともに開けられるはずはないからだというのです。
 五月のある日、爽《さわ》やかな宵、八が来そうな晩でしたが、お仕着《しき》せの晩酌を絞って、これから飯にしようという頃になって、ようやく個性的な馬鹿笑いが、路地の闇をゆさぶるのでした。
「お前が笑い込んで来ると、ご町内の衆は皆んな胆《きも》をつぶすじゃないか、何がそんなに可笑《おか》しいんだ」
「ヘエ、あっしはどうかしてはいませんか、親分」
「臍《へそ》のロクロが、少し損じているんだろうよ、どうしても笑いの止らないところをみると」
「そんな間抜けな話じゃありませんよ、あっしという人間は、どうしてこうも、綺麗な新造に好かれるかと――ヘッヘッ」……お馴染み平次とガラッ。

本巻収録作品

◆腰抜け弥八
◆恋をせぬ女
◆弱い浪人
◆苫三七《とまさんしち》の娘

野村胡堂1882〜1963)岩手県生まれ。盛岡中学から東大法科に入学したが、父親の死去にともなって退学、報知新聞社にはいって政治部記者となった。そのころから胡堂の筆名で創作に手を染めたが、昭和6年(1931)、「オール読物」創刊時に捕物帳執筆を頼まれて実現したのが「銭形平次捕物控」だった。「平次」は以後26年間つづき、長短あわせて382編という膨大なシリーズとなった。「わたしの捕物帖の特徴は、まず容易に罪人をつくらないこと、町民と土民に愛情をもったこと、侍や通人は徹底的にやっつけたこと、そして明るい健康的な捕物にしようと心掛けたことだろう」こう胡堂は語っている。「あらえびす」の名で知られたクラシック音楽の評論家でもあった。

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「親分、あっしはもう口惜《くや》しくて口惜しくて」
 八五郎はいきなり怒鳴り込むのです。彼岸過ぎの良く晴れた朝、秋草の鉢の世話に、余念もない平次は、
「騒々しいな、何がいったい口惜しいんだ。好物の羊羹《ようかん》でも喰い損ねたのか」
 一向気のない顔を挙げるのでした。
「そんな気楽な話じゃありませんよ。親分も知っていなさるでしょう、菊坂小町と言われた小森屋の娘お通が、昨夜殺されましたぜ」
「フーム」
「口惜しいじゃありませんか。あっしの岡惚れでもなんでもないが、本郷中をピカピカさした娘を、虫のように殺してよいものでしょうか、親分」
「泣くなよ、八、それにしても、向柳原にいるお前が、菊坂の殺しを俺より先に嗅ぎ出すのは、たいそう良い鼻じゃないか」
「追分に用事があって、セカセカと本郷の通りを行くと、鉢合わせしそうになったのは、台町の由松親分じゃありませんか。その由松親分が、『菊坂小町が殺されて、昨夜から調べにかかっているが、俺一人では我慢にも裁ききれねえ、銭形の親分を迎いに行くところだ』というから、あっしが引返して親分をつれ出すことになり、由松親分はそこからまた菊坂の現場へ引返しましたよ――」
 八五郎は言葉せわしく説明するのです。
「よし、台町の由松親分の頼みなら、行かざアなるめえ」
 平次は手早く支度をして、菊坂町へ飛んだのです。
 お通の父親というのは、小森弥八郎というかなりの分限者《ぶげんしゃ》で、昔は槍一筋の家柄であったと言いますが、今では町内の大地主として、界隈《かいわい》に勢力を振い、娘のお通の美しさとともに、山ノ手中に響いております。
 小森屋の住いもまた、町人にしては非凡の贅《ぜい》でした。菊坂の坂上に建てたコの字型の建物で、玄関や破風《はふう》や長押《なげし》をはばかった町家造りには違いありませんが、それを内部の数奇を凝《こ》らした贅沢さに置き換えて、木口も建具も一つ一つが人の目を驚かします。
「銭形の親分」
 主人の弥八郎はいちおう平次を迎えましたが、激しい心の動乱に、急には言葉も出ない様子です。五十前後のすぐれた人品で、江戸の分限者らしい中老人ですが、こうした知的な見かけのうちに、案外の情熱を持っているのかもわかりません。
「とんだことでしたね、小森屋さん」
 平次もこれは知らない顔ではありません。
「親分、あの神様のような娘を、――あんまりひどいことをするじゃありませんか。どんなことをしても、敵《かたき》を取って下さい、お願いです」
 日頃の傲慢《ごうまん》さに似ず、打ち萎《しお》れた父親の姿は、見る眼にもあわれでした。
 娘お通の殺されたのは、母屋《おもや》と中庭を隔てて相対する廊下つづきの六畳の一と間で、それはお伽噺《とぎばなし》の姫君のような、可愛らしくも美しいものです。母屋に向いた北側は丸窓で、南は総縁、その外は板塀で、板塀の下は崖になっており、崖の下には折り重ったように町家がつづいております。
 母屋から廊下伝いに、娘の部屋へ入って行くと、親類の小母さん方が二三人、湿っぽく死骸のお守りをしながら、何かと葬いの打ち合わせをしておりましたが、平次と八五郎の姿を見ると、入れ替りに、コソコソと母屋へ引揚げてしまい、主人の甥の鉄之助という、頑丈な三十男だけが、案内顔に縁側に立っております。
 床の上に横たえた娘お通の死骸の痛々しさは、さすがの平次も息を呑みました。やや柄《がら》の大きい、色白の、さながら崩れた大輪の牡丹を思わせる美しさです。生前本郷中をカッと明るくしたという、不思議な愛嬌も、今は見る由もありませんが、十九というにしては、見事に成熟した肉体の魅力は、死もまた奪う由のない美しさです。
「ひどい事をしたものですね、親分」
 後ろから首を長くして、八五郎は口惜しがるのです。
「傷は、前から一ヵ所、右の胸元を、単衣《ひとえ》の上からやられている」
 心臓をひと突き、おそらく若い娘は、声も立てずに死んだことでしょう。
「胸にこれが突っ立っておりました」
 甥の鉄之助は、部屋の隅から、手拭いに包んだ真矢《ほんや》を一本持って来て見せました。鷹の羽を矧《は》いだ古い征矢《そや》ですが、矢の根がしっかりしており、それがベットリ血に塗れて、紫色になっているのも無気味です。
「これでやったのかな」
 顔を挙げると、母屋に向いている北側の丸窓の障子に、一ヵ所矢でも突き抜けたような穴が明いており、娘のお通が丸窓の下の小机に凭《もた》れていたとすると、障子越しに射た矢が胸に突っ立って命を取ることも考えられます。

……「恋をせぬ女」冒頭


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