「ハイネ詩集」

ハイネ/井上正蔵訳

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400円

「ハイネは読者を親友にしてしまう」といわれる。「歌のつばさに」や「ローレライ」など、ハイネの詩ほど多くの作曲家によって取り上げられて歌曲になったものはない。またハイネほど、国境を越え時代を超えて多くの読者を見いだしている詩人も少ない。

ハイネ(1797〜1856)ドイツのデュッセルドルフにユダヤ商人の血をひいて生まれる。バイロン、ゲーテ、シュレーゲルなどの影響を受けてロマン派の旗手となる。フランスの七月革命以後はパリに住み、ユゴー、バルザック、サンドらと交わり、またマルクスとも親交をむすんだ。プロシア政府による全著作発禁処分にもあった。代表詩集『歌の本』『アッタ・トロル』『ドイツ冬物語』。遺言でモンマルトルに葬られた。

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海へのあいさつ

「海(タラッタ)よ 海(タラッタ)よ」
ごきげんよう 永遠の海よ
いくどでも ごきげんよう と
わきたつ心から あいさつしよう
そのむかし 幾千のギリシャのひとびとが
不幸にうちかち 故郷をあこがれた
世にも名高いギリシャのひとびとが
心からおまえにあいさつしたように

潮(しお)はなみだち
なみうち ざわめいた
陽(ひ)は かろやかな ばら色の光を
まきちらした
かりたてられた鴎(かもめ)のむれが
さけびつつ とび立った
馬があがき 楯(たて)がなった
とおくへひびく勝利のおたけびのようなこえ
「海(タラッタ)よ 海(タラッタ)よ」

ごきげんよう 永遠の海よ
故郷(ふるさと)のことばのようにおまえの水がざわつく
おさない日の夢のように おまえのゆれる
波のおもてに微光がかがよう
すると ふるい思い出がまたあたらしく語り出す
かわいらしいすばらしい玩具(がんぐ)のひとつひとつを
かがやかしいクリスマス・プレゼントのひとつひとつを
あかい珊瑚樹(さんごじゅ)や金魚や
真珠(しんじゅ)やいろんな貝がらのそれぞれを
それらの品をおまえはこっそりかくして
あかるいその底の水晶の家にしまいこんでいる

ああ ぼくは荒涼(こうりょう)とした異郷でやつれはてた
胸のなかにあるぼくの心臓は
植物学者のブリキの胴乱(どうらん)にある
しぼんだ一本の草花のようだ
ぼくは自分がくらい病室に冬中うずくまる
病人のような気がする
そしていま とつぜんその部屋をぬけだし
陽(ひ)をうけてかがやくエメラルドのような春のひかりに
ぼくはまぶしく目を射られる
しろい花さく木がざわめき
わかい草花は匂(にお)いをはなつ
いろとりどりのまなざしでぼくをみつめ
かおり うなり いぶき わらい
青空には小鳥がうたう
「海(タラッタ)よ 海(タラッタ)よ」

おお よくもしりぞいた けなげな心よ
なんと いくたびもはげしく
北方の蛮女(ばんじょ)らにくるしめられたことか
おおきな かちほこる目から
女らは もえる矢をはなった
よこしまな するどいことばで
ぼくの胸を裂こうとおびやかした
楔形(せっけい)文字の紙片をつきつけ
ぼくのあわれな しびれた頭をうちくだいた
ぼくは いたずらに楯(たて)でふせいだ
矢はとび剣は鳴った
こうして北方の蛮女(ばんじょ)から
水際(みぎわ)までおしつめられた
そしていま 自由に息をつきながら ぼくは 海に
愛する救いの海に あいさつする
「海(タラッタ)よ 海(タラッタ)よ」

〔「海(タラッタ)よ 海(タラッタ)よ」というのは、クセノポーンの従軍記によるもので、敗残の一万のギリシャ兵が、苦難の峠(とうげ)から黒海を見て呼びかけた言葉。最後の節に出てくる「北方の蛮女ら」というのは、ハイネの若き日の恋人アマーリエおよびその妹テレーゼを指す。『歌の本』の「北海」の詩群の一篇である〕

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