ヘミングウェー短編集 2

「女のいない男たち」

ヘミングウェー作/高村勝治訳

ドットブック版 193KB/テキストファイル 132KB

500円

「失われた世代」の代弁者として、黙々と生きる男の虚無と絶望と救いをうたいあげたヘミングウェー28歳のときの第二短編集。長編『日はまた昇る』と『武器よさらば』のあいだの時期に書かれ、熱狂的な支持をえた作品集。

アーネスト・ヘミングウェー(1899〜1961)  イリノイ州生まれのアメリカの作家。第一次大戦後、新聞記者としてパリに行き、パウンド、スタインなどとの交流のなかから『日はまた昇る』を完成、一躍「失われた世代」の代表作家となった。独特の簡潔な文体は、文学界のみならず、人々のライフスタイルに大きな影響を与えた。釣と狩猟を愛したことでも知られる。

立ち読みフロア
 マヌエル・ガルシァは、ドン・ミゲル・レタナの事務所への階段をのぼっていった。スーツケースをおろし、ドアをノックした。返答はなかった。マヌエルは廊下に立っていたが、部屋に人の気配を感じた。ドア越しにそれが感じられたのだ。
 「レタナ」と呼び、耳をすました。
 返答はなかった。
 奴(やつ)はいる、たしかに、とマヌエルは思った。
 「レタナ」と言い、ドアをドンドンたたいた。
 「誰だ?」と事務所の中で言う声がした。
 「おれだ、マノロだ」とマヌエルが言った。
 「なんの用だ?」とその声がたずねた。
 「働きてえんだ」とマヌエルが言った。
 ドアが何度かカチカチ音をたて、バタンと開いた。マヌエルはスーツケースを持って、中にはいった。
 一人の小男が部屋の向こう側に、机を前にして、坐っていた。頭の上に、マドリッドの剥製(はくせい)師が作った牛の首があった。壁には、額縁入りの写真と闘牛のポスターがあった。
 小男は坐ったまま、マヌエルを見ていた。
 「おめえは殺(や)られたと、思ってたんだ」とその男が言った。
 マヌエルは机をこぶしでたたいた。
 小男は坐ったまま、机の向こうから彼を見ていた。
 「今年は闘牛(コリーダ)に何回でた?」とレタナがたずねた。
 「一度」と相手が答えた。
 「あの時だけか?」と小男がたずねた。
 「あれだけでさあ」
 「新聞で見たよ」とレタナが言った。彼は椅子にふんぞりかえり、マヌエルを見た。
 マヌエルは剥製の牛を見あげた。以前から何度か見たものだった。それには、家族の者の思い出があった。九年ほど前、その牛が将来性のあった彼の兄を殺したのだ。マヌエルはその日のことを覚えていた。その牛の首をとりつけた樫の楯に、真鍮の板金(プレート)がついていた。マヌエルは字が読めなかったが、それは兄貴を記念して書かれているのだと想像した。ともかく、兄貴はいい奴だった。
 板金にはこう書いてあった。「ヴェラグア公爵所有の雄牛『マリポサ』号。馬(カバーリョ)七頭を相手に、槍(ヴァーリャ)九本を受け、闘牛士見習(ノヴィリエーロ)アントニオ・ガルシァを殺す。一九〇九年四月二七日」
 レタナはマヌエルが剥製の牛の首を見ているのを見た。
 「公爵が日曜日用に送ってきた代物はひともんちゃく起こしそうだ」と彼は言った。「どいつも脚がだめなんだ。カフェでは、みんな、なんと言っとる?」
 「さあね」とマヌエルが言った。「いま着いたばかりなもんで」
 「なるほど」とレタナ。「まだ鞄を持ったままか」
 彼は大きな机の向こうでふんぞりかえったまま、マヌエルを見た。
 「坐りな」と言う。「帽子をとって」
 マヌエルは坐った。帽子をとった。顔の感じが変っていた。顔色は青ざめ、髷(コレータ)が帽子の下から見えないように頭の前でピンでとめてあるので、異様な感じがした。
 「顔色がよくないぜ」とレタナが言う。
 「退院したばかりなもんで」とマヌエル。
 「足を切断したと聞いたんだが」とレタナ。
 「とんでもねえ」とマヌエル。「すっかりよくなったんだ」
 レタナは机の向こうから身を乗りだし、マヌエルのほうに木製の煙草箱を押しやった。
 「一服どうだ」と彼が言う。
 「どうも」
 マヌエルは一本とって火をつけた。
 「吸うかね?」と言い、レタナのほうへマッチを差し出した。
 「いや」レタナは手を振った。「おれはやらねえんだ」
 レタナは相手が吸っているのを眺めていた。
 「仕事を見つけて働きに出たらどうなんだ?」と言う。
 「働きに出たくねえんだ」とマヌエル。「おれは闘牛士だから」
 「もう、闘牛士なんていないんだぜ」とレタナが言う。
 「おれは闘牛士でさあ」とマヌエル。
 「そう、おめえがあそこでやっているあいだはな」とレタナが言う。
 マヌエルは笑った。
 レタナは坐ったまま、黙って、マヌエルを見ていた。
 「よかったら、夜の部に出してやろう」とレタナが言いだす。
 「いつのなんで?」とマヌエルがきく。
 「あすの晩」
 「代役はごめんですぜ」とマヌエルが言う。みんなが殺(や)られるのは、代役をやってだ。サルヴァドールが殺られたのも、それだ。彼は机をこぶしでたたいた。
 「いまあるのは、それだけだ」とレタナが言う。
 「来週、出してくれねえか?」とマヌエルは言ってみる。
 「おめえじゃ、客が来ない」とレタナが言う。「みんなの見たがるのは、リトリとか、ルビトとか、ラ・トレなんだ。あいつらはいいからな」

……《挫けぬ者》より  


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