ヘミングウェー短編集3

「勝者には何もやるな」

ヘミングウェー作/高村勝治訳

ドットブック版 200KB/テキストファイル 97KB

500円

『われらの時代に』でヘミングウェーはひとりの男の成長の過程を描いた。『女のいない男たち』ではそのように成長した男がどのように絶望したかを描いた。本巻はいっそう深い絶望の物語である。作者は静かに虚無の世界をながめている。人生のはげしい嵐をとおりぬけ、諦観に達した作家の最後をかざる短編集。

アーネスト・ヘミングウェー(1899〜1961)  イリノイ州生まれのアメリカの作家。第一次大戦後、新聞記者としてパリに行き、パウンド、スタインなどとの交流のなかから『日はまた昇る』を完成、一躍「失われた世代」の代表作家となった。独特の簡潔な文体は、文学界のみならず、人々のライフスタイルに大きな影響を与えた。釣と狩猟を愛したことでも知られる。

立ち読みフロア
 ことの起こりはきわめて簡単だった。あいつはおれの書くものが好きで、おれの送っていた生活をつねづねうらやんでいたのだ。おれがしたいとおりのことをしているものと思ったのだ。あいつがおれをものにした手段と、とうとう、ほんとうにおれを愛するようになった事の次第は、すべて、あいつが自らのために新しい生活をうちたて、おれが過去の生活の残骸(ざんがい)を売りはらっていったという、よくある成り行きの一部分にすぎなかった。
 おれは生活の安定のためにそれを売りはらったのだ。安逸をむさぼるためでもあった。それは否定できない。そのほかに、どんなためだったろう? おれにはわからない。あいつはおれのほしいものはなんでも買ってくれたろう。それはわかっている。それに、すごくいい女だった。ほかの女と同じように、あいつとすぐにベッドにはいりたかった。いや、むしろ、あいつと、はいりたかった。ほかの女より金持ちだし、とても気持ちがいいし、観賞力があるし、決して泣きわめくようなことがなかったからだ。ところが、いま、あいつが立て直したこの生活も終わろうとしているのだ。それも、二週間前、とげが膝に掻き傷をつくったとき、おれがヨードチンキを使わなかったからなのだ。あのとき、二人はウォーターバックの群れを写真にとろうと前進していたのだった。ウォーターバックは首をあげて立ち、鼻づらで空気をかぎながら、あたりをうかがい、ちょっとでも音がしたら茂みにとびこもうと、耳をぴんと立てていた。あのときも、写真をとらないうちに、逃げられてしまったのだ。

……「キリマンジャロの雪」より


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