「狂えるヘラクレス」

エウリピデス/内山敬二郎訳

エキスパンドブック 263KB/テキストファイル 115KB

300円

エウリピデスのギリシア悲劇から「狂えるヘラクレス」「嘆願の女達」「イオーン」の3編を収録。

エウリピデス(前485?〜406?) 古代ギリシアの三大悲劇詩人のひとり。アイスキュロス、ソポクレスと異なり、作風は人間中心の立場をとり、伝統的な神々を批判したため、当時はしばしば物議をかもした。三人のなかでは最も多い19編の作品が現存する。代表作「メデイア」「ヒッポリュトス」「トロイアの女たち」「バッコスの狂信女たち」など。アテナイに生まれマケドニアで没した。

立ち読みフロア
(リューコス登場)
【リューコス】 へラクレスの父と妻とに尋ねる、尋ねてよいものならだが、しかしわしは貴様達の支配者になったのだから、尋ねたいことを尋ねてもよい筈だ、一体、貴様達はいつまで生き長らえようというのか? 死なずに済むために、どんな希望なり、救援《すくい》なりがあるというのか? 此奴《こやつ》等のハデスへ行ってしまった父親が、帰って来るとでも思っているのか? 何と怪《け》しからず悲嘆することか、貴様達が死なねばならぬからとて。貴様ともあろう者が、ゼウスが貴様と閨房《ねや》を共にして、子供が生まれたなどと、ヘッラス中に下《くだ》らない大法螺を蒔き散らした男が。また貴様も、大豪の者の妻と呼ばれた女子《おなご》が。何としたどえらいことを、貴様の夫が成し遂げたとか? 沼地のヒュドラを退治した? それともネメイアの野獣をか? あいつは罠で捕った癖に、素手《すで》でしめ殺したなどという。貴様はそんな事で張り合う気か? そんな事くらいで、このへラクレスの子供等が死なずに済むというのか? あいつは下《くだ》らない奴の癖に、野獣と戦って豪勇の名を得た、だが、その他の点では何の力もないのだ。左手に楯を持ったことなど一度もなく、槍の真近に迫ったこともない、ただ、卑怯者の得物の弓を手にして始終逃げ腰でいおったのだ。弓なんてものは勇士のしるしではないわ。勇士とは、陣頭に立ってじっと踏み止まり、いち速く槍の手傷を受けてもたじろがぬ男のことだ。老人、わしのこの処置は無情ではないぞ、いや、思慮深いというものだ。わしはクレオーンを、この女子《おなご》の父親を殺して王位を奪ったことは承知だからな。だから、わしはこいつ等が成人して、わしがした事に対して、わしに復讐しようとするのを捨ておく気はないわい。
【アムピトリュオン】 ゼウスとしては、自分のお子の事は自分で弁明されるだろう。だが、わしとしては、へラクレスよ、お前のためにこいつの愚かさを論証してやるぞ。お前が悪口されるのを、黙って聞いておれぬからな。先ず第一に、あの罵詈讒謗《ばりざんぼう》を――お前を卑怯だなどというのは罵詈讒謗だからな、へラクレスわしは神々を証人に、お前から取り除かねばならぬ。わしはゼウスの雷霆《いかづち》と、あの四頭立ての馬車――彼が乗って行って、あの大地から出た巨人どもを相手に、羽毛の箭《や》をその胸に射込んで、神々と共に高らかに凱歌を奏したあの馬車とに訴える。それから、この悪逆無道の王め! ポロエーへ行って、あの暴慢な四脚《よつあし》ども、ケンタウロスの族に聞いて見ろ、誰を一番武勇の人と考えるかを。わしの子でなくて誰がある? 貴様はあれのことを、ただ見かけ倒しだと言ってるけれど。しかし、あの貴様を育てたディルピュス(7)、あのアバンテス人(8)の国に聞いても、貴様を褒めはしないだろうよ、貴様が武勇の働きをしたことを証言する祖国などはどこにもないからな。また、貴様はあのとても賢い発明、弓という得物を馬鹿にするが、今わしのいう事を聞いて賢くなれ! 重甲兵《ホプリテース》は、その楯の奴隷だ、そして一緒に陣列にある者が卑怯者だったら、その側近の卑劣のために自分も死ぬのだ。また、槍が折れたら、身を守ることができぬ。防御の手立てが一つしかないのだから。だが、弓を取って腕に覚えのある者は、得物は一つだが最善だ。無数の矢を放っても、なお他の矢で身を守って死なずに済む。遠く離れて敵を防ぎ、眼を見張ってる奴でも、眼に見えぬ所からの矢でやっつける。敵には姿を見せず、用意周到だ。退いて身を守ろうとしない敵には、こちらは身の安全を謀りながら、これを打破る。これこそ戦《いくさ》の最も賢明な手段《てだて》というものだ。この問題については、わしの意見は、貴様とは正反対だ。しかし、何ゆえにこの子供達を殺そうというか? 貴様に彼らが何をした? しかし、ただ一つ、貴様の賢いと思うことがある。自分が卑劣漢なので、勇士の子供達を恐れるとすればだ。しかし、それでもやはり、我々にとっては苛酷なことだ、貴様の卑劣さのために死なねばならぬのならな。それは、正当な我々によって貴様が受けるべき運命なのだ。もし、ゼウスが我々について正しい考えを持たれるならばだ。しかし、貴様がこの地の王位を自分に欲しいというのなら、我々を亡命者として、土地から出て行かせて貰いたい。決して暴力を用いてはならぬ、でないと暴力で倒れるだろうぞ、神が貴様に対して、運命の息吹きを転換される時に。
 ああ!
 おお、カドモスの地よ! というのは、わしは非難の言葉を投げつけて、お前に対するのだから。お前はこんな事で、へラクレスと、その子供等とを守るというか? 彼は単身ミュニアイ人の全軍と戦って、テーバイ市民に、自由の光を見ることを得せしめた。またヘッラスも気に入らぬわ、わしは決して黙って耐《こ》らえてはおらぬぞ。わしの息子に対して甚だ怪《け》しからんからな。この幼い者達のために、ヘッラスは火でも、槍でも、楯でも、何でも持ってやって来なければならぬ筈だ。彼が海と陸とを清掃してくれた返礼に、彼が苦労した事の報償として。そんな援助は、子供達や、テーバイ市も、ヘッラスも、我々にしてはくれぬ。お前達はわしに、この力のない友に頼っている、このただの男にしかすぎない者に。昔あった力は、もう失《の》うなった。老いのおののく手脚と、衰えた力しかない。わしが若くて、肢体《からだ》の自由がきいたら、槍をとって、此奴のその黄色い頭髪《かみ》を血まみれにしてやるのだが。そしたら此奴、臆病風に吹かれて、アトラスの際涯《はて》の先まで、わしの槍を逃げて行くことだろうになあ。

……「狂えるヘラクレス」より

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