「高い窓」

レイモンド・チャンドラー/田中小実昌訳

ドットブック版 215KB/テキストファイル 188KB

500円

フィリップ・マーロウは、行方不明になったアメリカ古金貨の捜索を頼まれる。依頼人のマードック夫人は、歌手あがりの息子の嫁を疑っていた。だがマーロウは、この一家に、はるかに複雑で不吉なものがうごめいているのを感知する…探索をすすめうちに、マーロウは事件の鍵をにぎると思われる3人の人物の死をもたらしてしまう…ハードボイルド・ミステリーの雄、チャンドラーの初期代表作。

レイモンド・チャンドラー(1888〜1959)シカゴ生まれ。ハメット、ロス・マクドナルドと並ぶ、最も有名なハードボイルド作家の一人。イギリスで育ち、第一次世界大戦ではカナダ海外派遣軍、イギリス空軍に従軍、除隊後アメリカに戻る。33年にパルプ・マガジン『ブラック・マスク』に「脅迫者は撃たない」が掲載されデビュー。39年発表の処女長編『大いなる眠り』で探偵フィリップ・マーロウを登場させ、一躍売れっ子となる。他の代表作は『さらば愛しき女よ』『湖中の女』『長いお別れ』。

立ち読みフロア
 その家は、パサデナ市のオークノール・セクションにあり、ドレスデン・アヴェニューに面していた。ワインレッドのレンガ壁に、白い石でふちをとった赤褐色のタイルの屋根、大きな、がっしりしたつくりの、落ち着いた建物だ。階下の窓枠には鉛をつかい、二階の窓は山荘風で、ロココ式まがいの石材の飾りがやたらについていた。
 正面のレンガ壁と、その真下の花の植込みから、半エーカーばかりの、すばらしい緑の芝生が表の通りにゆるいスロープをえがいてくだり、その途中にある、やたらに大きなヒマラヤ杉を、まるで岩のまわりにうちよせる、青い、つめたい潮のようにとりかこんでいる。家の前の舗装した歩道もパークウェイもだだっぴろく、パークウェイにある白い花を咲かせた三本のアカシアも、ちょっとした観物(みもの)だ。夏の朝のかおりが重くあたりによどみ、ソヨともうごかない空気のなかで、あらゆる物が、完全に静止した状態をたもっている。だが、このパサデナでは、これでも涼しい、いい天気なのかもしれない。
 エリザベス・ブライト・マードックという名の老夫人とその家族がこの家に住んでいた。そのマードック夫人が、葉巻の灰など床におとさず、ピストルも一つ以上は持っていない、おとなしい、きれい好きな私立探偵を雇いたがっているということのほかは、おれはなにも知らなかった。いや、それに、マードック夫人は未亡人で、その死んだ主人は頬ひげをはやしたジャスパー・マードックという男で、パサデナの市政に尽くすとともに、また、うんとこさ財産をつくったこともわかっている。毎年、ジャスパー・マードックの記念日になると、パサデナの新聞には、何年何月に生まれて何年何月に死んだ、という短い略歴を下にかきこんだその写真と、「彼の生涯は奉仕の生涯であった」というような文句が載る。
 おれは通りに車をとめ、緑の芝生のなかの、二、三ダースの飛び石をわたって、とがった屋根のレンガの柱廊玄関(ポルティコ)についた呼びリンをならした。表のドアから車寄せまで、家の正面は、ひくいレンガ壁になっている。家に通ずる小径のはしには、コンクリートの台に、ペンキをぬった、ちいさな黒ん坊の像が立っていた。黒ん坊は、白の乗馬ズボンに緑色のジャケット、それに赤い帽子という《いでたち》だ。手にはムチをもち、台の足もとのところに、馬の手綱をつなぐ鉄の輪がはめこんであった。黒ん坊は、ながいあいだ待って、待ちくたびれたような、ちょっぴりかなしい顔つきをしている。おれは表のドアにだれか出てくるのを待っているあいだに、その像のところにいき、頭をなでてやった。
 しばらくすると、女中のお仕着せを着た中年のむっつりした顔の女が、八インチばかりドアをあけて、ナンキン玉みたいな目でおれをにらんだ。
「フィリップ・マーロウです。マードック夫人に会いにきました。前に約束してあります」
 むっつり顔の中年の女中は歯をギリッとならし、パチンと目をとじると、またパチンとあけて、気の強い開拓時代の西部女のような、角ばった、かたい声でいった。「どっちのほう?」
「えっ?」
「どっちのマードック夫人よ?」女中は、かみつきそうな口調でくりかえした。
「エリザベス・ブライト・マードック夫人です。マードック夫人が、この家に何人もいるとは知らなかったんでね」
「いるわよ。名刺は――?」
 ドアは、まだ八インチばかり開けただけだ。そのあいだから、女中は鼻の頭と、ほそい、ごつごつした手をつきだした。おれは紙入れをだし、私立探偵の肩書は刷りこんでない名刺をぬいて、その手にわたした。手と鼻の頭はひっこみ、おれの鼻のさきで、ドアはバタンとしまった。
 裏口のほうにまわらなくちゃいけなかったのかな、とおれは思ったりした。そして、ちいさな黒ん坊の像のところにいき、また頭をなでた。
「兄弟、おれもおまえといっしょだよ」
 おれは待っていた。もう、かなりたつ。口にタバコをくわえたが、火はつけなかった。青と白にペンキをぬった小さなアイスクリーム屋の車が、「藁(わら)のなかの七面鳥」をミュージックボックスで鳴らしながら通りすぎる。黒と金色の大きな蝶々がおりてきて、おれの肘ぐらいの高さはあるアジサイにとまり、その羽を、二、三度、ゆっくり上下に動かし、また、さもからだが重そうにアジサイをはなれると、夏のにおいがムンムンする、あつい、じっとうごかない空気をかきわけて、飛んでいった。
 やっと、表のドアがあいた。そして、むっつりした顔の女中がいった。「こちらに――」
 おれはなかに入った。ドアの内側は、大きな四角の部屋で、陰気な、ひんやりとした感じがただよい、その雰囲気も霊枢室(れいきゅうしつ)そっくりで、匂いまで、なにか似ていた。ラフな漆喰(しっくい)の壁には綴織(つづれおり)の壁掛けがあり、二階の高さの横の窓の外側には、鉄棒をはめこんだ、飾りのバルコニーがついている。ビロードのシートとやはり綴織の背もたれ、彫刻のある椅子の横には、金モールがぶらさがっていた。部屋のうしろは、テニスコートぐらいの大きさの、ばかでかいステンドグラスの窓で、その下には、カーテンをひいたフレンチドアがある。カビくさく、陰気で、排他的な、キチンとかたづいた感じの悪い部屋だ。だれも、この部屋の椅子には腰をおろしたことがなく、これからも、そんな気をおこす者はいないようにも思える。みょうにひん曲がった脚の大理石張りのテーブル、金メッキの置時計、二色の大理石をつかった、こまごました置物。これらみんなの埃(ほこり)をはらうのには、一週間はかかるだろう。ずいぶん金がかかってるが、どれもこれも、趣味の悪い物ばかりだ。それでも、三十年前の、ゆたかで、保守的な地方都市パサデナでは、こんな部屋もたいしたものに見えたのかもしれない。
 おれたちは玄関の間を出て、廊下にはいり、しばらくいくと、むっつりした顔の女中が、ある部屋のドアをあけ、なかに入るように、おれに身ぶりでしめした。
「マーロウさんよ」女中は、いじわるそうな声で、ドアごしに中の者に言うと、歯をギリッとならし、むこうに行ってしまった。

……冒頭より

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