「秘密組織」

アガサ・クリスティ/一ノ瀬直二訳

ドットブック版 205KB/テキストファイル 214KB

500円

魚雷攻撃で沈没寸前の英国汽船「ルシタニア号」上で、秘密任務をおびた男は見ず知らずの若い女に「アメリカ大使館に届けてくれ」と重要書類を託す。やがて大戦が終わり、恋人同士のトミーとタッペンスが起こした青年冒険家協会に、2人の依頼人があらわれる。2人の用件は、どちらも、ルシタニア号上で消息をたった男女に関するものだった! サスペンスあふれる異色作。

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポアロの登場する「 スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポアロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

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プロローグ

 一九一五年五月七日、午後二時だった。ルシタニア号は二発の魚雷をつづけざまにぶちこまれ、刻々と浸水していった。救命ボートが全速力でおろされている。婦人子供が列を作って自分らの順番を待っていた。女たちのある者は懸命に夫たちにすがりつき、ある者は自分の子供をしっかりと胸にかき抱いている。一人の娘が他の連中より少し離れた所にしょんぼり立っていた。若い娘である。まだ十八にもなっていないだろう。べつに恐れているようすはなかった。真剣な目つきで、まじろぎもせずに前方をまっすぐ見つめていた。
「失礼ですが……」
 すぐそばで男の声が聞こえ、彼女はぎくりとしてふりかえった。一等船客の一人としてよく見かけた男である。何か秘密の影を持った男で、彼女は想像力をいや応なしにかき立てられていたのである。男は誰にも話しかけなかったし、話しかけられても、そっけない態度で人をよせつけなかった。そして自分の肩越しに敏捷《びんしょう》な疑い深い目つきでそわそわと背後を見まわすくせがあった。
 彼が今、狼狽《ろうばい》していることは、彼女にもはっきりわかった。ひたいには玉の汗が列をなして浮かび出ている。何かただならぬ心配事でもあるらしい。とはいうものの、死に直面することを恐れるようなタイプの男には見えなかった。
「なんでしょうか?」彼女はまじめな、いぶかるような目つきで彼の目をながめた。
 彼は死物狂いの、それでいてまだ決心のつきかねる表情を浮かべて、彼女を見ている。
「そうだ。これより他に方法はないんだ!」と彼は自分に向かって呟《つぶや》いた。それから声を出して、ぶっきらぼうにこうたずねた。
「あなたはアメリカ人でしょう?」
「ええ」
「愛国心のあるアメリカ人?」
 娘は顔を赤らめた。
「そんなことをたずねる権利はあなたにはありませんわ。もちろん愛国心は持っていましてよ」
「気を悪くなさらないでください。それに、問題がいかに重大であるかをお知りになったら、気を悪くなさることもないと思います。とにかく、わたしはいま誰かを信用しなければならないし――その誰かは女でなければならないんです」
「どうして?」
「婦女子優先ですから」彼はあたりを見まわして、声を落とし、「わたしは、書類を、非常に重要な書類を携帯《けいたい》しているんです。戦時中連合国側に大きな変化をもたらすかもしれない書類です。何としてでも保管しておかねばならない書類です。ところが、現在の情勢下では、わたしが持ってるより、あなたが持ってたほうがこれを救い出すチャンスは大きいでしょう。お願いですから持っていってくれませんか」
 娘は手をさし出した。
「ちょっと待ってください――一応警告しておかねばならないことがあります。危険があるかもしれないということです。――もしわたしを尾行《びこう》している人間がいたら、ですがね。尾行されてはいないと思いますけど、万一ってこともありますからね。もし尾行されていたら、きっと危険が生じます。あなたにはそれを切り抜けるだけの勇気があるでしょうか?」
 娘は微笑した。
「そのくらいの勇気はありますわ。それにあたしは自分がえらばれたということに大いに誇りを感じています。その書類はあとでどう処理したらいいんですか?」
「新聞を見てください。タイムズ紙の個人三行広告に注意してください。『船友に告ぐ』という見出しで広告します。わたしに何も起こらなければ三日後に広告します。わたしが船といっしょに沈んでしまえば、この包みはアメリカ大使館に行って大使に直接手渡してください。わかりましたか?」
「よくわかりました」
「じゃ、その要領で……。お願いします。さようなら」彼は彼女の手を握った。「幸運を祈ります」彼は前より大きな声で言った。
 彼女は防水布につつまれた包みをにぎりしめた。その包みは握手をした時、彼のてのひらからうつされたのであった。
 ルシタニア号は、さらに右舷に大きくかしいだ。あわただしい命令に従って、娘は前に進み、ボートに乗り込んだ。

……巻頭より


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