「一つ目小僧その他」

柳田国男著

ドットブック版 433KB/テキストファイル 226KB

600円

日本全土に伝わる伝説を幅広く蒐集・整理して詳しく分析、それぞれの伝説の由来と歴史、そこにからまる人々の信仰や風習を跡づけ、「妖怪とは零落した神である」という大胆な仮説を提唱する柳田国男。「一目小僧」「目一つ五郎考」「鹿の耳」「橋姫」「隠れ里」「流され王」「魚王行乞譚」「物言う魚」「餅白鳥に化する話」「ダイダラ坊の足跡」「熊谷弥惣左衛門の話」の11編を収める。

柳田国男(やなぎたくにお)(1875〜1962)現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれ。日本における民俗学の開拓者。東京帝大卒業後、農商務省にはいり、仕事の関係で各地を旅行、同時に早稲田大学で農政学を講義する。山地の民俗に興味をいだき『遠野物語』を著わすが、以降は幅広く各地の民俗を研究・調査、「方言」「昔話」「伝説」「童謡」などをテーマにした多くの著作を著わした。

立ち読みフロア
 一
 今まで気がつかずにいたが、子供の国でも近年著しく文化が進んだようである。
 自分は東京日日のために一目小僧(ひとつめこぞう)の話を書きたいと思って、まず試みに今年九つと六つになる家の娘に、一目小僧てどんな物か知ってるかと聞いてみた。すると大きいほうは笑いながら、「目の一つあるおばけのこと」と、まるで『言海』にでも出ておりそうなことをいう。小さいのに至ってはその二つの目を円くするばかりで何も知らず、そのおばけは家なんかへも来やしないかと尋ねている。つまり両人とも、この怪物の山野に拠(よ)り路人をおびやかす属性を持っていたことを、もう知ってはおらぬのである。
 とうとう一目小僧がこの国から、退散すべき時節が来た。按(あん)ずるに「おばけ」は化物の子供語である。化物は古くはまた「へんぐゑ」(変化)とも唱え、この世に通力ある妖鬼(ようき)または魔神があって、場所ないしは場合に応じて、自在にその形を変ずるという思想に基づいている。鬼が幽霊に進化してもっぱら個人関係を穿鑿(せんさく)し、一般公衆に対して千変万化の技能を逞(たくま)しゅうせぬようになると、化けるのは狐狸という評判が最も盛んになった。狐狸にはもとより定見がないから、続々新手を出して人を驚かすことを努める。したがって記録あってより以来、終始一箇の眼を標榜(ひょうぼう)し、同じようなところへ出現しているこの怪物のごときは、厳重なる「おばけ」の新定義にも合せず、少なくとも旧型に拘泥(こうでい)した、時代の好尚に添わぬ代物ということになる。家の子供らの消極的賢明のごときも、いわば社会の力で、これを家庭教育の功に帰することは難(かた)いのである。
 しかし昔は化物までがいたって律儀(りちぎ)で、およそ定まった形式の中にその行動をみずから制限していたこともまた事実である。もっとも相手を恐怖せしめるという単純な目的からいえば、このほうが策の得たるものであった。むやみに新規な形に出て、空想力の乏しい村の人などに、お前さんは何ですかなどと問われて説明に困るよりは、そりゃこそ例のだといわせた方が確かに有効である。つまり妖怪には茶気は禁物で、手堅くしておらぬと田舎では、この道でもやはり成り立ちにくかったのである。
 自分の実父松岡約斎翁(やくさいおう)は、篤学にして同時に子供のような心持ちの人であった。化物の話をしてくださると必ず後でそれを絵に描いて見せられた。だから自慢ではないが、自分は今時の子供みたように、ただ何ともかともいわれぬ怖い物などという、輪郭の不鮮明な妖怪は一つも知っておらぬ。一目小僧について思い出すのは、たいていは雨のしょぼしょぼと降る晩、竹の子笠を被(かぶ)った小さい子供が、一人で道を歩いているので、おう、かわいそうに今ごろどこの子かと追いついてふり返って見ると、顔には目がたった一つで、しかも長い舌を出して見せるので、きゃっといって逃げてきたというようなことである。
 この話はたぶん畿内(きない)・中国にわたった広い地域に行なわれていたものと思う。さまで古いころからのことであるまいが、二、三の画工が描き始めた狸の酒買いの図は、これから思いついたものらしい。笠の下から尻尾がちらりと見える形がおもしろいのでもてはやされ、たとえば京の清水(きよみず)などには、いずれの店先にもその焼物を並べているほどの流行であるが、流行すればするほど、化物としてはちっともこわくない。これは要するに鳥羽僧正(とばそうじょう)のような天才でも、その霊筆をもってして生きたおばけを作り得なかったのと同じ道理で、いかに変化(へんげ)でも相応の理由がなければ出てはこず、いわんや一人や二人の万八(まんぱち)や見損いから、これだけ強力なる畏怖(いふ)をひき起こし得るものでないことを証拠だてる。
 自分がまさに亡(ほろ)びんとする一目小僧の伝統を珍重し、できる限りその由来をたどってみたいと思うのも、まったく右申すような理由からである。

 二

 一目小僧の問題について、自分が特に意味が深いと思う点は、この妖怪が常に若干の地方的相異をもって、ほとんど日本全島に行きわたっていることである。これはおいおいと読者からの注意によって分布の状況を明らかにすることと信ずるが、自分の知っている限りでも、このものの久しく農民の囲炉裏(いろり)ばたと因縁をもっていたものであって、例の物知りや旅僧によって、無造作に運搬せられたものでないことだけはわかる。
 たとえば飛騨国(ひだのくに)などには、一目小僧はおらぬが一目入道がいる。高山町の住広造氏の話に、雪の降る夜の明け方に出るもので、目が一つ足が一本の大入道である。よってこれを雪入道と称して子供が恐がるという。
 一目はかねて足も一本だということはまた随分ひろく言い伝えられている。高瀬敏彦氏の話に、紀州伊都郡(いとぐん)では雪の降り積んだ夜、ユキンボ(雪坊?)という化物が出てくる。小児のような形をして一本脚で飛んであるくものと伝えられ、雪の朝、樹木の下などに円い窪みの所々にあるのを、ユキンボの足跡というそうである。
 この話では小僧の眼がいくつといわぬから、普通の数と見るの他はないが、同じ紀伊国でも熊野の山中に昔住んでいた一踏鞴(ひとつだたら)という凶賊(きょうぞく)のごときは、飛騨の雪入道と同じく、また一眼一足の怪物であった。一踏鞴、大力無双にして、雲取山に旅人をおびやかし、あるいは妙法山の大釣鐘を奪い去りなどしたために、三山の衆徒大いに苦しみ、狩場刑部左衛門(かりばぎょうぶざえもん)という勇士を頼んでこれを退治してもらった。色川郷三千町歩の立合山は、その功によって刑部に給せられたのが根源であって、後にこの勇士を王子権現と祭(まつ)ったと『紀伊国続風土記』に出ているが、土地の人は狩場刑部左衛門は実は平家の遺臣上総(かずさ)五郎忠光のことで、維盛(これもり)卿を色川の山中に住ませるため、恩賞の地を村の持(もち)にしておいたのだというよし、新宮町の小野芳彦翁は語られた。
『続風土記』の記事だけでは、一踏鞴は単にある時代に出てきた強い盗賊というまでである。しかし熊野の山中には今でも一本ダタラという怪物がいるというのを見れば、これを普通の歴史として取り扱うことはできぬ。これは南方熊楠(みなかたくまぐす)氏に聞いた話であるが、一本ダタラは誰もその形を見た者はないが、しばしば積雪の上に幅一尺ばかりもある大足跡を一足ずつ、印(しる)していった跡を見るそうだ。
 つまり一本脚ということは、雪の上に足跡を留めたによってこれを知り、その姿は見た者がないところから、目の一つであったか否かはこれを論議するおりを得なかったので、これから自分の列挙せんとする各地の例から類推すれば、いずれも一目小僧の系統に属せしむべき怪物であったかと考えられる。
 土佐では香美(かがみ)・高岡等の諸郡の山奥に、一つ足という怪物のいたことが、『土佐海(とさのうみ)』という書の続編に見えている。文政のころ藩命によって高岡郡大野見郷島ノ川の山中に香茸(こうたけ)を養殖していた者、往々にして雪の上にその一つの足跡を見たという。あるいは一、二間を隔てて左足の跡ばかり長く続いていることがあれば、あるいは右の足ばかりで歩いているのもあったという。

……「一目小僧」冒頭


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