「ホームズの事件簿」

コナン・ドイル作/内田庶・中尾明訳

ドットブック 277KB/テキストファイル 233KB

600円

シャーロック・ホームズもの最後の短編集。「有名な依頼人」「白面の兵士」「マザリンの宝石」「三人ガリデブ」「ソア橋事件」「覆面の下宿人」「三破風館の謎」「サセックスの吸血鬼」「はう男の秘密」「ライオンのたてがみ」「ショスコムの納骨所」「引退した絵具屋」の12編を収録した。
立ち読みフロア
 「いまとなっては、もうだれにも迷惑はかからないだろう」
 シャーロック・ホームズが、やっとそういってくれるまで、何年かかったことか。そのあいだ、わたしは、これから書きしるす、ホームズが活躍するある事件を発表させてほしいと、十回も頼み続けた。
 こうして、ホームズが探偵として一番活躍していた時代の、それもたいへん変った事件を、わたしは発表できることになったのである。
 ホームズもわたしも、サウナ風呂が大好きである。風呂からあがって、休憩室で汗のひくあいだ、パイプをくわえてタバコをすう。風呂あがりの気持ちのよい、ぐったりさに、心地よくひたっているときは、ホームズもふだんより、いくらか口が軽くなって、おしゃべりになる。ホームズが、すこしは普通の人間になるときである。
 ノーサンバランド大通りのサウナ風呂の二階に、寝いすが二つならべておいてある、ちょっとはなれた静かな場所がある。これから話そうとする事件がはじまるのは、一九〇二年九月三日、この寝いすに、ふたりがならんで横になっていたときであった。
 わたしは、ホームズに、ちかごろ何か、かわったことが起きなかったか、たずねた。
 すると、ホームズは口で答えるかわりに、からだに巻きつけたシーツのあいだから、長くて細い神経質そうな腕を、にゅっとだした。そして、そばにかけている上着のポケットをさぐって、一通の手紙をとりだした。
「たいしたことでもないのに、ご本人だけが騒ぎたてているものなのか、それともほんとに生きるか死ぬかの問題なのか。いまのところ、ぼくにも、これに書いてあることだけしかわからないんだがね」
 ホームズは、そういって、手紙を渡してくれた。
 見ると、封筒には、カールトン・クラブの名が印刷されていた。日付は前の日の夜である。封筒の中身をとりだして読むと、つぎのようなことが書いてあった。

 シャーロック・ホームズさま
 まだお目にかかっていませんが、わたくし、サー(卿)・ジェームズ・デマリーは、かねてから、あなたさまを尊敬している者であります。
 さて、とつぜんですが、たいへん重要であり、できるかぎり用心深くあつかう必要のある問題について、ご相談もうしあげねばならなくなりました。明日の午後四時半、おたずねいたします。なにとぞ、お会いいただけますよう、お願いもうしあげるものです。
 なおカールトン・クラブまで、電話でご都合を、おしらせいただけましたら、ありがたくぞんじます。

「もちろん、承知したと返事をしておいたけどね、ワトスン」
 わたしがかえす手紙を受けとりながら、ホームズは逆にたずねてきた。
「きみは、このデマリーという男について、なにか知っているかい?」
「そうだね、貴族や身分の高いひとたちだけ集まってつきあう社交界では、名が知れわたっているということぐらいかな」
「じゃあ、ぼくのほうが少しは知っていることになるか。あのひとたちの社交界で、新聞に出てもらいたくない、やっかいな事件を、おもてざたにしないで解決することで、評判の男だ。きみもおぼえているだろう、ほら、ハマフォードの遺言状事件で、ジョージ・ルイス卿と、どんなぐあいに巧みににはなしあったか。あの男だよ。
 貴族にしては、交渉ごとのじょうずな才能がある。だからきょう、ぼくのところにもちこんでくる相談ごとにしても、ただのお騒がせでなくて、ほんとにぼくらの助け舟を必要しているものではないかと、期待しているんだけどね」
「ぼくらだって?」
「そうさ、手つだってくれるんだろう、ワトスン?」
「もちろん、よろこんで手つだうよ」
「じゃあ四時半だよ。それまでは、この問題は忘れてしまうことにしよう」

……「有名な依頼人」より


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