「放浪記」

林芙美子著

ドットブック版 291KB/テキストファイル 275KB

600円

《私は宿命的に放浪者である》…強く生きた一人の女性の若き日の自伝。「本書はちょっとでも読み始めるだけで、林芙美子の生き方にも、その個性にも、たちまちぐいぐい惹きつけられるはずである。当時の女性が書ける「心が生きた文章」なのだ。ぼくは母に薦められてこれを読んだのだが、たちまち魅了された。林芙美子が大好きにもなった。自分のことを書いてみたいと思っている女性は、ぜひともこの文章を読むといい。勇気も湧くだろうが、文章の訓練にもなる」…松岡正剛氏はこう書いている。新字現代仮名遣い。 

林芙美子(1903〜51)門司(または下関)生まれ。行商を営む家族と西日本各地を転々とした後、広島県尾道に落ち着く。高等女学校卒業後に上京、貧困と孤独のうちにも作家への道を突き進む。26年に画家の手塚緑敏と結婚。雑誌連載のあとまとめた「放浪記」が改造社から出版され、一躍人気作家になった。その後は、短編小説、随筆、紀行文などを精力的に執筆、「晩菊」は日本女流文学者賞に輝いた。51年、心臓麻痺のため急逝。朝日新聞に連載中だった「めし」が絶筆となった。享年47歳。

立ち読みフロア
 私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。

 更けゆく秋の夜 旅の空の
 侘(わび)しき思いに 一人なやむ
 恋いしや古里 なつかし父母

 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物(ふともの)の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処(ところ)であった。私が生れたのはその下関の町である。――故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人(たびびと)である私は、この《恋いしや古里》の歌を、随分侘(わび)しい気持ちで習ったものであった。――八つの時、私の幼い人生にも、暴風が吹きつけてきたのだ。若松で、呉服物の糶売(せりうり)をして、かなりの財産をつくっていた父は、長崎の沖の天草(あまくさ)から逃げて来た浜と云う芸者を家に入れていた。雪の降る旧正月を最後として、私の母は、八つの私を連れて父の家を出てしまったのだ。若松と云うところは、渡し船に乗らなければ行けないところだと覚えている。
 今の私の父は養父である。このひとは岡山の人間で、実直過ぎるほどの小心さと、アブノーマルな山ッ気とで、人生の半分は苦労で埋れていた人だ。私は母の連れ子になって、この父と一緒になると、ほとんど住家と云うものを持たないで暮して来た。どこへ行っても木賃宿(きちんやど)ばかりの生活だった。「お父つぁんは、家を好かんとじゃ、道具が好かんとじゃ……」母は私にいつもこんなことを云っていた。そこで、人生いたるところ木賃宿ばかりの思い出を持って、私は美しい山河も知らないで、義父と母に連れられて、九州一円を転々と行商をしてまわっていたのである。私がはじめて小学校へはいったのは長崎であった。《ざっこく》屋と云う木賃宿から、その頃流行のモスリンの改良服と云うのをきせられて、南京(ナンキン)町近くの小学校へ通って行った。それを振り出しにして、佐世保、久留米、下関、門司、戸畑、折尾(おりお)と言った順に、四年の間に、七度も学校をかわって、私には親しい友達が一人も出来なかった。
「お父つぁん、俺アもう、学校さ行きとうなかバイ……」
 せっぱつまった思いで、私は小学校をやめてしまったのだ。私は学校へ行くのが厭(いや)になっていたのだ。それは丁度、直方(のうがた)の炭坑町に住んでいた私の十二の時であったろう。「ふうちゃんにも、何か売らせましょうたいなあ……」遊ばせては《モッタイナイ》年頃であった。私は学校をやめて行商をするようになったのだ。

 直方の町は明けても暮れても煤(すす)けて暗い空であった。砂で漉(こ)した鉄分の多い水で舌がよれるような町であった。大正町の《馬屋》と云う木賃宿に落ちついたのが七月で、父達は相変らず、私を宿に置きっぱなしにすると、荷車を借りて、メリヤス類、足袋、新モス、腹巻、そういった物を行李(こうり)に入れて、母が後押しで炭坑や陶器製造所へ行商に行っていた。
 私には初めての見知らぬ土地であった。私は三銭の小遣いを貰い、それを兵児帯(へこおび)に巻いて、毎日町に遊びに出ていた。門司のように活気のある街でもない。長崎のように美しい街でもない。佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった。骸炭(がいたん)のザクザクした道をはさんで、煤(すす)けた軒が不透明なあくびをしているような町だった。駄菓子屋、うどんや、屑屋(くずや)、貸蒲団屋、まるで荷物列車のような町だ。その店先きには、町を歩いている女とは正反対の、これは又不健康な女達が、尖(とが)った目をして歩いていた。七月の暑い陽ざしの下を通る女は、汚れた腰巻と、袖のない襦袢(じゅばん)きりである。夕方になると、シャベルを持った女や、空のモッコをぶらさげた女の群が、三々五々しゃべくりながら長屋へ帰って行った。
 流行歌の《おいとこそうだよ》の唄が流行(はや)っていた。

 私の三銭の小遣いは《双児美人》の豆本とか、氷饅頭(まんじゅう)のようなもので消えていた。――間もなく私は小学校へ行くかわりに、須崎町の粟(あわ)おこし工場に、日給二十三銭で通った。その頃、笊(ざる)をさげて買いに行っていた米が、たしか十八銭だったと覚えている。夜は近所の貸本屋から、《腕の喜三郎》や《横紙破りの福島正則》、《不如帰(ほととぎす)》、《なさぬ仲》、《渦巻》などを借りて読んだ。そうした物語の中から何を教ったのだろうか? メデタシ、メデタシの好きな、虫のいい空想と、ヒロイズムとセンチメンタリズムが、海綿のような私の頭をひたしてしまった。私の周囲は朝から晩まで金の話である。私の唯一の理想は、女成金になりたいと云う事だった。雨が何日も降り続いて、父の借りた荷車が雨にさらされると、朝も晩も、かぼちゃ飯で、茶碗を持つのがほんとうに淋しかった。
……第一部冒頭
より

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