「ホームズの生還」

コナン・ドイル作/鈴木幸夫訳

エキスパンドブック(挿し絵入り) 804KB/ドットブック版 363KB/テキストファイル 257KB

600円

ホームズ物傑作短編第三集。冒頭の「空き家の怪事」で読者の熱烈な要望にこたえて復活したホームズが、 以下「ノーウッドの土建屋」「ひとり自転車を走らせる女」「プライアリ学院」「踊り人形」「ブラック・ピーター殺し」「奸賊ミルヴァートン」「六個のナポレオン」「三人の学生」「金縁の鼻眼鏡」「スリー・クォーターの失踪」「アビ農場の屋敷」「第二のしみ」の13編の物語のなかで ふたたび縦横の活躍をみせる。 なお、「踊り人形」は謎の鍵が画像のため、テキスト版には収録されていない。エキスパンドブック版には、「ストランド」誌掲載のパジェットのイラスト22点を収録 した。
立ち読みフロア
 「刑事専門家からすると、今は亡きモリアーティ教授が死んでから、ロンドンというところは妙に面白くない町になってしまった」とシャーロック・ホームズが言った。
 「慎(つつ)しみある市民なら、めったにそんな考えに同意しやしまいと思うよ」私は答えた。
 「なるほど、僕が身勝手を言うことはないね」朝の食卓から椅子を後ろにずらしながら、彼は笑って言った。「たしかに社会は勝者になったんだし、敗者はただひとり、仕事がなくなった専門家だけだ。あの男が活躍していたころは、毎日の朝刊が無限の可能性をはらんでいた。たいがい、ほんのちょっぴりの痕跡(こんせき)、かすかな徴候でしかなかったがね、それでも僕には背後に凶悪きわまる智力のひそんでいるのがわかったもんだ。ちょうど、蜘蛛(くも)の巣の末端が少しでも震えるのを見て、真ん中に怪(け)しからぬ蜘蛛が身をひそめているのに気がつくのと同じことさ。こそどろ、気まぐれな腕力沙汰(ざた)、わけもない暴力行為……手がかりを握っている人間にとっちゃ、こんなものはみんな連絡のあるひとつのものにまとめあげられる。高等犯罪を科学的に研究している者にとって、当時はヨーロッパのどこにも、ロンドンぐらい面白い都会はなかったものだ。ところが今じゃ……」
  彼は自分が大きな力になって築きあげた今の状態に、ユーモアたっぷりな非難をこめて、ひょいと肩をすくめた。
  ……
  シャーロック・ホームズは、気まぐれな不服を唱(とな)えてから椅子の背にもたれこみ、ゆったりとした姿勢で朝刊をひろげた。と、そのとき、呼鈴(よびりん)がけたたましく鳴りひびいたかと思うと、続いて誰かが玄関の戸をこぶしで叩いているらしく、ドンドンとうつろな音がして、二人ともそれに気を引かれた。戸が開くと、騒々しく廊下に駈けこんで、ガタガタと急ぎ足に階段を上がってくる気配(けはい)、たちまち、目を血走らせた青年が狂乱のていで部屋にとびこんできた。顔色は青ざめ、髪をふり乱して、波打たせている。われわれをかわるがわる見くらべてから、二人の不審な眼にあって、青年はこの無躾(ぶしつけ)な闖入(ちんにゅう)のいいわけをしなければならないことに気がついた。
 「ごめんなさい、ホームズさん」大声で言った。「とがめないで下さい。気が狂いそうなんです。ホームズさん、私が不幸なジョン・ヘクター・マクファーレインなんです」
  名前さえ言えば、この訪問の目的も、この態度のこともわかるはずだといわんばかりであった。しかしホームズの顔には何の反応もなく、彼もまた私と同様、何もわかっていないようだった。
 「一服おつけなさい、マクファーレインさん」と、ホームズは煙草ケースを押しやった。
 「そのご症候なら、こちらのワトスン博士が鎮静剤(ちんせいざい)の処方を書いて下さるでしょう。このところ二、三日、ずいぶん暖かい陽気が続きましたからねえ。さあ、少し落ち着いたら、どうぞそちらの椅子にお掛けになって、どういうお方か、何用でおいでになったか、ゆっくりと、静かにお聞かせ頂きましょうね。今あなたのお名前を僕が存じ上げているようなお口ぶりでしたが、あなたが独身の事務弁護士で、フリー・メイスンの会員で、ぜんそくにかかっておいでだという、はっきりした事実のほかには何も存じませんよ」
  ホームズの方法にはもう馴(な)れっこだったけれども、私はなかなか彼の推論についていけなかった。青年の服装の不精(ぶしょう)なこと、法律の書類、時計の鎖(くさり)飾り、息づかいなどに目をつけて、そこから彼のような推論を引き出すのは、容易なことではない。しかし青年は目をみはって言った。

……《ノーウッドの土建屋》より


購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***