考証[風流大名]

稲垣史生著

ドットブック版 270KB/テキストファイル 123KB

525円

黄門さま「徳川光圀(みつくに)」から始まり、遊女高尾斬りで知られる「伊達綱宗(つなむね)」、桜田門外の変に倒れた「井伊直弼(なおすけ)」、ガラシャ夫人で有名な「細川忠興(ただおき)」、作庭でも名を残した「小堀遠州」、将軍家剣術ご指南役の「柳生宗矩(むねのり)」、忠臣蔵の「浅野長矩(ながのり)」など、風流に名を残した17人の殿様を考証。時代小説ファンにも必見の殿様人物伝。

稲垣史生(いながき しせい、1912〜96)時代考証家・歴史小説家。本名、稲垣秀忠。富山県出身。早稲田大学文学部国文学科を卒業。東京新聞記者、雑誌編集長を経て、文筆業に。『時代考証事典』『武家事典』『江戸生活事典』など著書多数。時代考証の第一人者としてNHK大河ドラマ『竜馬がゆく』『樅ノ木は残った』『勝海舟』などで時代考証を手がけ、第1回放送文化基金賞受賞。杉浦日向子は弟子であった。

立ち読みフロア
 少年時代の光圀(みつくに)が、どんなに賢く、勇敢だったかは諸書にある。隣村の少年との石合戦に勝ち、降伏のしるしの紅白の珠(たま)を取りあげたこと、学問がよくでき、「真弓権現(まゆみごんげん)の天狗坊」から稀代の人品と指摘されたなど、一級史料から出た話ばかりである。中でも水戸藩の継嗣(けいし)選びに、依怙贔屓(えこひいき)のないよう幕府の付(つけ)家老中山備前守(びぜんのかみ)が水戸へいったとき、
「大儀であった!」
 と凛然(りんぜん)と言い、そのあと備前守の膝(ひざ)へすり寄って、石合戦の戦利品たる美しい小石をみやげに……とさし出した。その時の、珠玉にまさる怜悧な眼の輝きに、この人こそ将来の副将軍……中山備前は瞬間そうきめて家光に復命した。長男の頼重(よりしげ)がとくべつ劣っていたわけではないが、やがて正式に選ばれて父頼房の継嗣として江戸藩邸に入った。
 寛永十一年(一六三四)光圀七歳で江戸城へ登城、はじめて将軍家光に謁見した。時に家光が何かほしいものがないかと聞くと、即座に光圀は文昌星(ぶんしょうせい)の銅像を指さした。
「上様、これを賜わりとうございます」
 それは鬼瓦(おにがわら)のようにグロな顔だが、右手に筆、左手に判を持つ天下経綸(けいりん)の象徴とされる像。家光は内心おどろきながら、
「この子は将来、文学の道で国に尽すだろう」
 と思った。その反面、胆力も抜群で、小石川屋敷の刑場から、晒首(さらしくび)をひきずってきた話は有名である。
 寛永十三年(一六三六)七月、光圀は九歳で元服して左衛門督(さえもんのかみ)に任じられた。もうりっぱに大名の卵で、文武両道にはげんで次代に備えねばならない。
 ところが光圀は十二、三歳から十六、七歳まで、どう歯車が狂ったかすっかりグレてしまった。辻相撲に飛び入りし、負けると刀をふりまわして暴れたり、吉原は勿論、怪しい街の白首(しらくび)女を買ったりする。男にはそんな一時期がありがちだが、光圀のばあいは極端すぎ、あの怜悧な少年と同一人かと疑われるほどだ。とはいえこのグレた時期も、光圀にとって決してむだではなく、人生の裏側を見ることでどんなに施政に役立ったことか。
 それはとにかく、正保二年(一六四五)十八歳のとき、光圀の人間形成にとつぜん大変革が起った。中国の史書『史記』を読み、たまたま目が「伯夷伝(はくいでん)」の項に及んだ。瞬間、彼は雷に打たれたような衝撃を受けた。
「あッ、わが事ではないか!」
 光圀は愕然(がくぜん)、慄然(りつぜん)として、襟を正しておのれを省みた。危ういかな、人倫の道を踏み外すところだった。
『史記』は前漢に書かれた編年体の史書だが、その一項目「伯夷伝」というのは、河北(かほく)省の孤竹(こちく)国で父王が死んだとき、伯夷・叔斉(しゅくせい)の兄弟があとを譲り合い、どうしても決しないため首陽山にかくれ住み、ついに餓死するという史実が書かれている。
 これに比べて自分はどうか? 兄頼重をさしおいて、世子(せいし)の座につきちやほやされているではないか。何という非条理! 何という罪業(ざいごう)! 思えば父頼房も、兄より先に子供を産んだため、人倫にもとるとして秘密にした。それが人間の条理であり、自分は何と迂闊だったことか! 同時に光圀は歴史書が、どんなに人間の現実に益するかを知った。歴史は先人のあとをたどり、善悪を判別してわれらの人生に役立てる。いわば「反省の学」ともいうべく、お家学――儒学さえその前には何と影薄く感じられることか!
 光圀が『大日本史』の編纂を思い立ったのはこのときで、江戸藩邸に彰考館(しょうこうかん)を建て、学者を集め、史料を諸国に求めて完璧の日本史編纂を志した。莫大な費用もそのためには惜しまない。累代(るいだい)の藩主に引きつがせ、必ず完結させねばならない。光圀は三度変身して、みずから編纂作業の先頭に立った。また伯夷の故事にならい、頼重の子の綱條(つなえだ)をおのれのあとつぎと早々に決定した。
 明(みん)国の遺臣朱舜水(しゅしゅんすい)を、師礼を以(もっ)て招いたのも史書編纂のためである。光圀の卓抜した識見は、多く朱舜水より伝授されたものだった。
 朱舜水は亡びた明朝への愛着から、日本へ亡命した高名の学者である。長崎に潜伏の噂(うわさ)を光圀が聞き、強く要請して迎え入れた。光圀はこの師により、はじめて史眼を開かれ、また儒学の神髄にもふれた。
 朱舜水から聞く中国は、光圀にとって輝かしい先進国であり、学問・技芸・農工などすべて師表とすべきものばかりである。光圀は憧れ、中国の山河を慕い、ついにはその景観をわが屋敷の庭に移したいと思うようになった。
 父頼房が造った庭園はばかでかいばかりで、今となっては風雅とは縁遠い。特に蓬莱島は遊亀の形どころか、恐竜みたいなグロな形になって浮かんでいる。
「この庭、造り変えよう」
 と光圀は言った。そして傍(かたわら)の朱舜水に問いかけた。
「最も中国らしい湖はどこでしょうか。朝夕わたしはそれを眺め、儒学の故地中国にいるつもりで日夜研鑚(けんさん)したいのです」
「私は西湖(せいこ)を推奨しますよ。中国でも有数の景勝の地だし、東へのびる白堤は白居易の築いたもの。ほかにも西湖十景の美観があります」
 光囹の思いはいっぺんに西湖へ飛んだ。そうだ西湖がよい。中国流に切り立った断崖を作り、奇巌怪石を入れ、中国ふうの橋をかけよう。一度思い立ったら夢中になるところも、光圀は父頼房によく似ていた。

……「
徳川光圀(みつくに)」より

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