「恐怖の谷」

コナン・ドイル作/齊藤重信訳

エキスパンドブック 712KB/ドットブック版 206KB/テキストファイル 155KB

400円

英国イングランドの跳ね橋と堀のある古い館で起きた奇怪な殺人事件……ホームズは見事にそれを解明するが、その裏にはアメリカ開拓時代にさかのぼる暗い暴力の歴史がこめられていた。シャーロック・ホームズもの最後の長編。
立ち読みフロア
「ぼくはいつも考えるんだけど――」と私がいいかけると、
「ぼくだって考えてるつもりさ」シャーロック・ホームズがいらだたしげにいった。
 私は辛抱強さの点では誰にも負けないつもりだが、こうもひとをばかにしたように話の腰を折られては、正直いって不愉快だった。
「ホームズ君、きみって男はときどき気にさわることをいうね、まったく」私は遠慮せずにいってやった。
 でも彼は、自分の考えにすっかり心を奪われていて、私の苦言《くげん》に何の反応も示さなかった。頬杖《ほおづえ》をついたまま、目の前の朝食には手をつけようともせず、封筒からとりだしたばかりの紙きれをじっとみつめている。やがて彼は封筒を手にとって明るいほうへさし出し、表側から垂れぶたの裏側にいたるまで丹念にしらべだした。
「ポーロックの筆跡だよ」彼は考えこみながら、「いままでにあの男の字には二度しかお目にかかったことはないのだが、彼の字であることに疑いの余地はないね。eにギリシア文字を使い、頭の部分を妙にわざとらしく書くのが彼の癖なのだが、しかし、もしこれがポーロックからのものだとすると、よほど重要なものにちがいない」
 彼の口ぶりは私を相手にというよりはむしろ自分にいいきかせているふうだったが、私は好奇心にかられて耳を傾けているうちに、いつのまにかさきほどの腹立ちも忘れてしまっていた。
「で、そのポーロックってのはいったい何者なんだい?」私はたずねた。
「ポーロックというのは、ワトソン君、一種の筆名《ノム・ド・プリユム》だよ。身分証明のためのたんなる記号でしかない。ところがその陰の正体はずるがしこくてとらえどころのない男なのだ。このまえの手紙で彼はこの名前が本名ではないことを堂々と白状し、おまけに、この大都会にうようよしている何百万人もの人間のなかから自分の正体をつきとめられるものならつきとめてみよ、とぼくにたんかをきってよこした。もっともポーロックという男自体はさして重要ではない。問題なのは彼の背後にひかえている大物のほうなのだ。ポーロックというのは、いってみれば、サメの案内役のブリモドキとか、ライオンの先棒《さきぼう》をかつぐジャッカルみたいに、恐るべき親玉にただあやつられているだけのチンピラのようなものにすぎない。しかもその親玉はただ恐ろしいというだけではない、ワトソン君、悪辣《あくらつ》なのだ、凶悪きわまりないのだよ。彼についてぼくにわかっているのはざっとこのくらいだ。モリアーティ教授のことはきみに話したことがあったよね?」
「かの有名な科学的犯罪者のことかね。悪人仲間でのその名声ときたら――」
「ぼくの赤面のごとし、かい、ワトソン君」ホームズは苦い顔をしてつぶやいた。
「いや、ぼくは『世間で無名なることと表裏一体なり』といいたかったのだよ」
「うまいこというね、秀逸だよ!」ホームズは叫んだ。「ワトソン君は最近、思いがけない時に、真面目顔で冗談を言うようになったね。ぼくもうかうかしてられないな。だがね、モリアーティを犯罪者よばわりすると名誉毀損で訴えられるよ。そこがあの男の偉大な点なのさ。あらゆる時代を通じて最大の陰謀家、あらゆる悪事の首謀者、暗黒街の支配的頭脳――使いようによっては一国の運命をも左右しかねないほどの頭脳。それがあの男の正体なのだ。ところが世間から疑惑の目で見られることもなく、まして非難を浴びることなどもなく巧みに身をくらましているものだから、それこそきみがいまうっかりしゃべった言葉をたてにとってきみを法廷にひっぱりだし、きみのまる一年分の年金を名誉毀損の慰謝料として堂々とまきあげていくことぐらいわけなくやってのける男なのさ。『小惑星の力学』の著者として、彼が広く世に認められていることはきみも知っているだろう? あの本は純粋数学の頂点にまで達していたので、当代の科学評論家ですらほとんど理解できなかったといわれている。こんな男にへたなことをいえるかい? 毒舌家の医者、教授を中傷――世間ではそうとるにきまっているよ。まさに天才だね、ワトソン君。でもね、ぼくが小物連中相手のつまらぬ仕事から解放されたら、きっとあの男をつかまえてみせるよ」
「ぜひその場に立ち会いたいものだね」私は心をおどらせて叫んだ。
「ところでさきほどのポーロックって男のことだけど」
「ああ、そうだったね。そのポーロックと名のる男は、いわば鎖の中心から少しはずれた場所を占めている環のようなものだ。もっとも、ここだけの話だが、あの男はそれほどしっかりした環ではない。ぼくがたしかめたかぎりでは、鎖のなかでいちばんもろいところだね」
「でも、もっとも弱い部分が鎖の強度を左右するものだよ」
「まさにそのとおりだ、ワトソン君。だからこそポーロックの存在がきわめて重要になってくるのだ。彼にもまだ良心というものが残っているらしく、ときたまひそかに送ってやった十ポンド札が効いたとみえ、いままでに一、二度貴重な情報をぼくに流してくれたことがある。それも、犯罪を懲《こ》らしめるためというよりは、それを予見し未然にふせぐために役立つたぐいの、きわめて貴重なものだった。こんどの情報にしたところで、もし暗号の鍵さえわかれば、きっとぼくがいまいったような性質《たち》のものだと思うよ」
 ホームズはふたたび、まだ使っていないとり皿の上にその手紙をひろげた。私は立ちあがって、彼の肩ごしにのぞきこんでみると、つぎのような奇妙な字が書きしるされていた。

 534 C2 13 127 36 31 4 17 21 41
 DOUGLAS 109 293 5 37 BIRLSTONE
 26 BIRLSTONE 9 127 171

「何のことだと思う、ホームズ君?」
「秘密の情報を伝えようとしてきたことはたしかだね」

……「第一章 警告」冒頭

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