「氷海越冬譚」

ヴェルヌ/大久保和郎訳

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300円

ダンケルク港に帰ってきたラ・ジュンヌ・アルディ号に、若き船長の姿はなかった。父と、許嫁のマリは悲嘆の底につき落とされる。航海日誌と航海士ヴァスランの言葉によれば、若き船長はメールストロム(大渦)に呑み込まれそうになった別の船を助けようと一人の水夫と舵手とともにボートで向かい、そのまま消息を断ってしまったという。あきらめきれない父親は、すぐさま捜索におもむく決意を固める。同道するベテランの舵手プネランは、ヴァスランが遭難者を捜すために全力をつくしたのかどうかに一抹の疑問をおぼえていた……極洋を舞台にしたヴェルヌの海洋冒険譚。
立ち読みフロア
 ダンケルクの古い教会の司祭は一八……年五月十二日の朝、いつもの習慣のとおり何人かの信心深い漁夫が出席する第一回の低誦ミサを唱(とな)えるために五時に目を覚ました。
 司祭服を着て祭壇へ行こうとしていると、一人の男がうきうきしながらしかも取り乱して聖具室にはいって来た。六十歳ぐらいの、しかしまだ逞(たくま)しく頑健そうな、実直な顔つきの船乗りだった。
「司祭さん、ちょと待ってください!」と男は叫んだ。
「こんな朝っぱらからいったいどうしたんだね、ジャン・コルンビュット?」と司祭は答えた。
「私がどうしたかって?……とにかくあなたの首ったまにかじりつきたくてたまらなくってね!」
「それじゃ、ミサの後でな、あんたもミサに出るんだろう……」
「ミサだって!」と老船乗りは笑いながら答えた。「あんたは今からミサを唱えるつもりですかい、わしがそんなことさせると思っておいでですかね?」
「では、どうしてわしはミサを唱えられんのかね?」と司祭はきいた。「説明してもらおう! もう三つ目の鐘が鳴ってしまった……」
「三つ目が鳴ろうが鳴るまいがそんなこたあどうでもいい」とジャン・コルンビュットは言い返した。「どうせ今日は鐘はたくさん鳴るでしょうよ、司祭さん。だってあなたは、わしの息子のルイと姪(めい)のマリの婚礼を自分で執りおこなうとわしに約束してくれたんだから」
「それでは帰って来たのかい?」と司祭は嬉しげに叫んだ。
「もう帰って来たも同然ですわい」とコルンビュットは手を揉(も)みながら言った。「望楼から東のほうにうち(ヽヽ)の二檣船(ブリック)が見えると言って来ましたからね。あんた自身が『大胆娘』(ラ・ジュンヌ・アルディ)と命名してくれたあの船が!」
「心からお祝いを申し上げよう、ジャン・コルンビュット」と司祭は祭袍(シヤジユブル)と頸帯(エトル)を脱ぎ捨てながら言った。「その約束のことは忘れてはいないよ。助祭に代理をしてもらって、わしは息子さんを迎えるために何でもあんたの望みどおりにしてさしあげよう」
「それに、約束しますが、倅(せがれ)はそんなに長いことあなたの食事を遅らせるようなことはしますまいよ! 結婚公示はすでにあなたの手で出されているんだから、後はもう北洋の空と海のあいだで犯したかもしれない罪に赦免を与えてくれさえすりゃあいいんだ。まったくこいつはいい思いつきだったな、婚礼を帰港当日におこない、ルイの奴は船を降りるなり教会に行くということにしたのは!」
「それでは準備万端ととのえて来るんだ、コルンビュット」
「ひとっ走り行って来ますよ、司祭さん。それではまた!」
 船乗りは急いで自分の家に帰った。家は商港の岸壁の上にあり、北海が見え、彼はそれをひじょうに自慢していた。
 ジャン・コルンビュットはその職業によって多少の身代を作っていた。ル・アーヴルの豊かな船主の持ち船で長いこと船長をつとめた後、彼はその生まれ故郷の港に腰を据え、自分のものとして二檣船「ラ・ジュンヌ・アルディ」を造らせた。北洋への何度かの航海は図に当たり、船は材木や鉄やタールの積荷をいつもいい値段で売ることができた。ジャン・コルンビュットはそこで船の指揮を息子のルイに譲ったが、この息子は三十歳のまじめな船乗りで、沿岸航路の船長たちのこぞって言うところではダンケルクでいちばん勇敢な船乗りだった。
 ルイ・コルンビュットは父親の姪(めい)であるマリに非常な愛情を感じながら出発し、マリは彼の留守のあいだを実に長く感じた。マリは二十歳になるかならずだった。オランダ人の血が少々混じっている美しいフラマン娘で、母親は死に臨んで兄弟のジャン・コルンビュットに彼女を託したのである。だからこの実直な船乗りは血を分けた娘のようにこの子を愛し、今度おこなわれるはずの結婚によって本当の永続的な幸福が得られるものと見ていた。
 水路の沖で発見されたブリックが到着すれば、ジャン・コルンビュットが多額の利潤を見込んでいる大きな商取引が終わるのだった。三か月前に出帆した「ラ・ジュンヌ・アルディ」はとうとうノルウェー西岸のボドエから帰って来る。しかも船はひじょうに速く行って来たのだ。

……《一 黒旗》より

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