「イリアス」(上・下)

ホメロス/呉茂一訳

(上)ドットブック 627KB/テキストファイル 248KB

(下)ドットブック 693KB/テキストファイル 275KB

各800円

 トロイア戦争が始まって10年目の最後の年、ギリシア方とトロイア方の勇将・戦士たちがくりひろげる戦乱絵巻。その中心となるのは、ギリシア方の総大将アガメムノンと、もう一人の勇将アキレウスとの、捕虜にしたトロイア方の娘をめぐっての人間臭い確執だ。全体は「源平盛衰記」のような日本の戦記物さながら。
アキレウスが戦いを拒否し、ギリシア方の敗勢は濃くなる。トロイア方の勇将ヘクトルがギリシア勢を海辺に追い詰めるにおよんで、アガメムノンは莫大な褒賞を約束してアキレウスを呼び戻そうとする。だがアキレウスは承知せず、ギリシア勢の砦は破られ、多くの勇士が倒れ、あるいは傷つく。アキレウスの無二の友パトロクロスはアキレウスの甲冑を借りて戦うことを思いつき、それによってギリシア勢はトロイア勢を城市の壁まで追い詰める。だが深追いしたパトロクロスはヘクトルに殺され、ヘクトルはアキレウスの甲冑を奪ってみずから身にまとい、パトロクロスの遺骸を辱める。
アキレウスは悲しみと怒りからついに意を決し、アガメムノンと和解して復讐の戦いにのぞむ…ヘクトルを殺せば、自分の死もまぬがれぬという母親の警告もきかず。アキレウスはほとんど単身、トロイア勢に切り込み、ついにヘクトルを殺し、死体を戦車の後ろに結びつけてトロイアの城壁のまわりを何度もまわって辱める。
アキレウスはパトロクロスのために荘厳な葬儀をおこなうが、ヘクトルの遺骸をトロイア方へ返そうとはしない。ヘクトルの父プリアモスは身代金を積んで息子の遺骸をひきとりに来る。アキレウスは初めて情を動かされ、ヘクトルの遺骸を返し、その葬儀のために11日間の休戦を認める。物語はここで終わるが、むろんその後、アキレウスはトロイアの陥落を見ることなく死ぬ。

ホメロス 作者ホメロスには不明な点が多いが、前8世紀ごろの人。現トルコのエーゲ海岸一帯(イオニア)に関係が深かった人で、盲目の語り部であったろうと推測されている。古代ギリシアの生んだ2大叙事詩「イリアス」と「オデュッセイア」の作者。前者はトロイア戦争そのものを、後者は戦争後の一英雄の帰国までを格調高く歌いあげた作品として、ヨーロッパ世界共有の遺産として今日まで受け継がれている。

立ち読みフロア
第一巻

疫病と憤怒の次第

【アカイオイ(アカイア勢、ギリシア遠征軍のこと。アルゴス勢、ダナオスの裔《すえ》などとも呼ばれる)のトロイア遠征十年目の出来事、本詩の主題であるアキレウスの憤怒の原因を説く。イリオス(トロイア)の城が陥《おちい》らないので攻めあぐんだアカイア勢は近隣を攻略、クリュセの町からそこの神官の娘クリュセイスを捕えて来る。戦利品分配の末、彼女は総将ミュケナイ王アガメムノンの有に帰する。ところが彼女の父はこれを悲しみギリシア方の陣を訪ね、釈放を求めるが、アガメムノンは乱暴に彼を追いかえす。神官は悲憤して社神アポロンに祈り報復を求めると、銀弓神(アポロン)は悪疫をギリシア陣に送り、兵士らはつぎつぎと倒れてその屍《しかばね》を焼く煙が九日もつづく。十日目にこれを憂えたギリシア方第一の勇士アキレウスが、諸将を集会させる。予言者カルカスの解明で原因を知った彼は、みなと共に少女の返還をアガメムノンにもとめる。不満なアガメムノンは代償にアキレウスが獲た少女プリセイスを奪い取った。アキレウスは憤《いきどお》って自陣にこもり出陣を拒否し、母なる海の女神テティスを呼んで、主神ゼウスにアガメムノンへの報復を乞わせる。ゼウスもついに承諾しギリシア方を敗走させ、アガメムノンに思い知らせることを約束する】

 憤り(の一部始終)を歌ってくれ、詩の女神よ、ペレウスの子アキレウス〔ギリシア方第一の勇士〕の呪《のろ》わしいその憤りこそ、数知れぬ苦しみをアカイア勢《ぜい》に与え、またたくさんな雄々しい勇士らの魂を冥府《よみじ》へと送ったものである。そして彼らの屍《しかばね》はといえば、野犬だの、猛禽《もうきん》類の餌食《えじき》にされた。いっぽうその間に(大神)ゼウスの意図は成就されていったのだ。いかにもそれは、最初に武士《もののふ》たちの王であるアトレウスの子(遠征軍の総大将アガメムノン)と勇ましいアキレウスとがけんか別れをして以来のことである。
 だがいったい、神々のうちのどのかたが、この二人を向かいあわせて闘わせたのか。レトとゼウスとの御子(アポロン)である。そのゆえは、彼がアガメムノンにたいして立腹され、(アカイア軍の)陣中にひどい悪疫を起こしたので、兵士らはどんどん斃《たお》れていった、そのもとは、アトレウスの子(アガメムノン)が、(アポロンの)神官であるクリュセスを侮辱したからである。すなわちはじめにクリュセスは(アカイア軍に捕えられてる)自分の娘を買い戻したいという考えで、おびただしい身代金を持って、アカイア軍の速い船(の引き上げて置いてある陣地)へ来た。手には遠矢を射る御神アポロンの神聖なしるしの毛総《けふさ》を上につけた黄金の杖をたずさえ、並みいるアカイア軍の大将たちみなみなに懇願した、中にもとりわけ、兵士らの統領であるアトレウス家の二人の王に向かってである。(それで、いうようには)
「アトレウス家のかたがた、またその他の、立派な脛《すね》当てをつけたアカイア勢の殿がたよ、願わくはあなたがたに、オリュンポス山上に宮居《みやい》をかまえたもう神々が、プリアモス〔トロイアの王〕の城市を攻め取ることをお許しのよう、そして無事に故郷へと帰り着かせてくださるように。だが、私の娘は、どうか私に返して、代りにこの身代金を受け取ってくだされ。ゼウスの御子なる、遠矢を射たもうアポロンの神威《しんい》を畏《おそ》れて」
(神官が)こういうと、他のアカイア軍の将たちは、みな声をそろえて賛成をし、彼に敬意を表してきらきらしい身代金を受け取れとすすめたが、アトレウスの子アガメムノンだけは、これにたいそう機嫌をそこね、神官に侮辱を加えて追い返し、暴言を吐《は》いていうよう、
「このうえおまえに、この私が、うつろに刳《く》った船〔船は種々な形容辞を有する。これはその一つ〕のかたわらで、出会わんようにするがいい、現在ぐずぐずしていたり、あとでまたやって来たりしてな。そしたらもう、御神の笏杖《しゃくじょう》とて、総《ふさ》とても、身の護《まも》りにはなるまいから。ともかくあの娘を私は返してはやらんぞ、私らが居城に、故郷からは遠いアルゴスの地にいて、機《はた》を動かし織りつづけ、また私の寝床の世話をして日を送りながら、すっかり彼女《あれ》が年をとらないうちはな。だから、さあ、帰れ、私を怒らせるな、なるべく無事に帰りたいなら」
 こういうと、老人はこわくなって、王の言葉に従いはしたが、それから、ごうごうと鳴りとどろく海の渚《なぎさ》へ、黙りこくって歩いてゆくと、人気《ひとけ》のないところへいって、その老人は、アポロン神へと、心をこめて祈りつづけた、髪の美しいレトが生んだ神へ、である。
「私の祈りをお聞きください、銀弓の神よ、クリュセの町一帯をお護りのうえ、神聖なキルラやテネドスを稜威《みいつ》も高くお治めになるスミンテウス(アポロン)よ、かつて私が御神へと、神殿の屋根を葺《ふ》いてさしあげ、また本当に、肥えた牡牛や山羊の腿《もも》の供物を、焼いてまつったことがあるなら、この願いをかなえてくださいませ、ダナオイ勢〔ギリシア勢〕が、御神の矢(の威勢)によって私の涙のつぐないをいたしますよう」
 こう祈りながらいった、その言葉を、ポイボス・アポロン〔アポロンの異称の一つ〕が聞かれると、心にはげしい怒りをもやして、オリュンポスの峰々から降りて来られた。両肩には弓と、しっかりと蔽いをつけた箙《やなぐい》とをかけまわしていたので、神様が体を揺すって歩みを運ぶと、ひどく怒っておいでの肩のまわりでたくさんな箭《や》が、ひびきを立てた。御神はさながら夜のように歩を進めておいでだった。それから、船陣から離れたところに御座《みくら》を占めると、矢を引き放たれた。銀づくりの弓からは、恐ろしい轟音が湧き起こった。まず最初には騾馬《らば》や、足の速い犬どもを、矢は襲った。それから今度は兵士ら自身へと、さきの鋭い矢弾《やだま》を御神はつぎつぎに放っておあてなされば、(疫癘《えきれい》の矢に斃《たお》れた兵士の)屍を焼く火は引きもきらずに燃えつづけた。
 九日のあいだ、このように御神の箭《や》は、陣中をくまなく襲いつづけた、その十日目に、会議の場へと、武士たちをアキレウスが呼び集めた。というのは、彼の心に(そういう考えを)白い腕の女神ヘレ〔ゼウスの姉妹でその妃〕が、起こさせたからである。つまり女神はダナオイ勢がどんどんと斃れてゆくのを見て、気づかわれたのであった。さて人々が集まって来て、一つところに寄り合ったとき、皆の間に足の速いアキレウスが立ち上がって、こういいかけた。
「アトレウス家の王よ、今はもうわれわれとても、撃退されてしまってからは、故国へ引き返して戻るほかないと思う。もしわれわれが死を万一にも免れたにしろ、まったく戦いと悪疫とがいっしょになって、アカイア軍を負かそうとかかるならば。ともかく、さあ、誰か占い者か、神主か、あるいは夢占いをする者なりにたずねてみよう、夢というのは、ゼウス大神のもとから遣《つか》わされるものなのだから。そしたら彼がどうしてこんなにポイボス・アポロンが激怒されたかいってくれよう、もしやわれわれの祈りについてか、または大贄《おおにえ》につき苦情をお持ちなのか。それで、あるいは仔羊や申し分なく育った(犠牲《いけにえ》)の山羊の脂身を焼いた煙を受けたもうて、悪疫をわが軍から追い払ってくださるつもりはお持ちでないかを」
 こうアキレウスはいい終えて腰をおろした。すると皆の間にテストルの子、カルカスが立ち上がった、鳥占師《とりうらし》のうちでもとくに第一人者といわれる者で、現在のこと、未来のこと、また以前にあったことにもよく通じていて、アカイア軍の船隊を自分の占い術によってイリオス〔トロイア〕の奥まで導いて来た。その占いの術はポイボス・アポロンが授けたもうたものだった。その人がいま、みなみなのためを思って、会議の座に立ち、説いていうには、
「おお、アキレウスよ、ゼウスに親愛されているあなたが、遠矢を射たもうアポロンのみことがお腹立ちのゆえを語れと命じられるのだから、私はいおうと思う。だが、あなたはよく気をつけて、誓ってください、本当に心をこめて言葉と腕と、両方で、私を防ぎ護ってくれることを。それというのも、これから私はある人物を怒らすことになると思うからだ、その男とは、アルゴス人《びと》ことごとくを、大層な威勢で従え、アカイア軍も服従している人物である。ところで、国の領主《との》というものが、位の低い人間に腹を立てた場合には、いっそうきびしいのが常なのだ。それでその当日は憤りを強《し》いておさえて過ごそうとても、それをはらしてしまうまでは、ずっと後までも恨みを自分の胸に含んでいるのだ。それゆえ、あなたが無事に護ってくれるよう、思案してください」
 これに答えて、足の速いアキレウスがいうようには、
「安心してどんどんと、何でも知っているかぎりの、神のお告げをみな言うがいい。ゼウスがおいつくしみのアポロンにかけて、カルカスよ、いつもきみが祈りをささげて、ダナオイ勢に神託を明かし伝えるのだから、けして私が生きている限り、この眼の黒いあいだは、うつろに刳《く》った船のかたわらで、ダナオイ勢全体の誰一人にも、きみにたいして暴力はふるわせまい。たとえそれがアガメムノンだとしてもだ、その人はいま、アカイア軍じゅう、断然人にこえて大きな威権を誇るものではあるが」
 すると、その時はじめて元気を出して、この立派な予言者は口を開いた。


……冒頭より


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