「妹の力」

柳田国男著

ドットブック版 343KB/テキストファイル 223KB

600円

かつて女性は固有の神秘の力をもつものとみなされ、祭祀をつかさどり、信仰の対象にもなってきた。柳田国男は民俗学の方法を縦横に駆使して、そうした時代の女性に託されていたさまざまな役割を明らかにする。「妹の力」「玉依彦(たまよりひこ)の問題」「玉依姫(たまよりひめ)考」「雷神信仰の変遷」「日を招く話」「松王健児(まつおうこんでい)の物語」「人柱と松浦佐用媛(まつうらさよひめ)」「老女化石譚」「念仏水由来」「うつぼ舟の話」「小野於通(おつう)」「稗田阿礼(ひえだのあれ)」からなる。 

柳田国男(やなぎたくにお)(1875〜1962)現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれ。日本における民俗学の開拓者。東京帝大卒業後、農商務省にはいり、仕事の関係で各地を旅行、同時に早稲田大学で農政学を講義する。山地の民俗に興味をいだき『遠野物語』を著わすが、以降は幅広く各地の民俗を研究・調査、「方言」「昔話」「伝説」「童謡」などをテーマにした多くの著作を著わした。  

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稗田阿礼

 一

『古事記』の伝誦者稗田阿礼(ひえだのあれ)が女だったということは、故井上頼圀(よりくに)翁の『古事記考』によって、まず明白になったと言ってよいのだが、その後この問題をかえりみた人も聞かず、いわんやそうするといかなる結論に達するかということを、考えてみた者もなさそうに思われる。しかも前代日本の社会における女性の地位というものはおりおり論ぜられている。ずいぶんと粗相な、また不用意な話ではあるまいか。私はもし時間が許すならば、少しでもこのことを尋ねてみたいと願っているのだが、それが心もとないゆえにここにはただ問題のみを、後の学問ずきの新婦人たちに引き継いでおきたいと思うのである。
 阿礼が女性であったという説は、伊勢の学者たちがはやくからこれを唱えていた。井上翁は単にその説を是認支持せられたまでである。『古事記』の太朝臣安万侶(おおのあそんやすまろ)の献序に、

 時に舎人(とねり)あり、姓は稗田(ひえだ)、名は阿礼(あれ)、年は是れ二十八、人となり聡明にして目に度(わた)れば口に誦し、耳に払(ふる)れば心に勒(しる)す。即ち阿礼に勅語して帝皇の日継(ひつぎ)及び先代の旧辞を誦(よ)み習はしむ

 とある文章では、彼が男でなかった証拠もあげられぬが、幸いにして稗田という家名があまり類のないものであったために、今ではほぼ安全にそれがいかなる門統に属した女であったかを知りうるのである。その説の要点を紹介するならば、『大和志料』に引用した『大倭(おおやまと)社注進状』の裏書なるものに、
「斎部連首(いむべのむらじおひと)・中臣(なかとみ)大島連等、勅を奉じて稗田阿礼が語るところの『古事記』を撰録す。今の『古事記』これなり。阿礼は宇治土公(うじのつちのきみ)の庶流、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の末葉なり」
 とあり、また「天鈿女命の子猿女命(さるめのみこと)神楽を奏す。永く子孫の女等神楽(かぐら)を仕へ奉る」とある。猿女君(さるめのきみ)氏の人々が、天岩戸の由緒を語り、天鈿女の後裔たる廉(かど)をもって朝廷に仕えていたことだけは、紀記の中にも明らかに見えており、稗田阿礼が同じくこの神の末であったことだけならば、古くは『弘仁私記』の序の註にも出ているのである。大和には今の添上(そえかみ)郡平和村に大字稗田があって、式内比売神社(ひめがみのやしろ)の所在地をもって目せられている。すなわちたぶん一族のこの邑(むら)に分居したものが、稗田氏と称して朝廷には召されていたのである。これだけがまず主要なる論旨であった。

 二

 右の猿女君氏は、代々女をもって相続すべき理由のある家であった。女神にして子孫あらんこと疑わしと、本居(もとおり)翁を始め多くの人は首を傾けたが、これは相続が必ず親から子に伝わるものとした上の議論で、神宮の御子良子(おこらこ)のごとく幼少の時を限ったものはもちろん、常陸鹿島(かしま)の物忌(ものいみ)のように、一生清浄に神より外の人には見(まみ)えなかった場合でも、定まった家からばかり引き続いてその役人を出して、これによって家職を伝えていた例は現代にもまだあるくらいで、男でなければ世襲せぬという理由はない。しかも世を追うて女系相続の風が珍しくなったために、猿女君の家では力を入れて、その特殊の事情を説いていたのである。『書紀』の「神代巻」には「皇孫天鈿女命(あめのうずめのみこと)に、汝よろしく顕はす所の神の名を以て姓氏と為すべしと勅したまひ、因(よ)りて猿女君の号を賜ふ。ゆえに猿女君等、男女皆君と為すはこの縁なり」とある。顕わすところの神とは猿田彦命(さるだひこのみこと)のことである。後世には託宣を伝え、かつお祭の仲立をすることを顕祀(けんし)というのだが、この朝廷の御昔語りにおいては、単に出でて応接の役に当ったことになっているのである。この顛末を『古事記』の方では、今少しく詳(つまび)らかに述べてある。

 かれここに天宇受売命(あめのうづめのみこと)にのりたまはく、この御前に立ちて仕へまつれりし※田毘古(さるだひこ)(※は女へんに「爰」)の大神をば、専(もっぱ)ら顕はし申せる汝送り奉れ。またその神の御名は、汝負ひて仕へまつれとのりたまひき。これを以て※女(さるめ)の君等が後、※田毘古(さるだひこ)の男神の名を負ひて、女を※女君(さるめのきみ)と呼ぶことこれなり云々

 そうしてこの次には海に漁して比良夫貝(ひらぶがい)に手を咋(く)われた話と、海鼠(なまこ)の口を紐小刀(ひもがたな)で切りひらいて、この口や答えせぬ口といったという話と、二つのややおどけたる逸事が続いているのである。『古事記』には女性が猿女君と名乗って朝廷に仕えた由緒のみならず、特にこの家に関する記事が目に立って饒多(じょうた)である。そうして稗田阿礼がまた猿女君の一類であったことが証明せられたとすれば、この二つの事実には何らかの脈絡があるものと、想像することは無理でないと思う。

……「稗田阿礼」 冒頭より


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