「機上の死」

アガサ・クリスティ/松本恵子訳

ドットブック版 189KB/テキストファイル 154KB

500円

21人の客をのせ、パリのル・ブールジェ空港を飛び立ちロンドンへと向かっていた旅客機の自分の座席のなかで、マダム・ジゼルは死んでいた。その少し前、客室内を飛ぶ一匹の黄蜂が目撃され、父子づれの乗客のそばに飛んでゆき、その息子によって退治されていた。不思議なことに、マダム・ジゼルの首筋には、蜂に刺されたような小さな傷跡があった。機内という密室殺人にいどむポワロ。紀田順一郎が若いときに感銘をうけ、あらためて読んで「やはり面白い」と絶賛したクリスティ作品。

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポアロの登場する「 スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポアロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

立ち読みフロア
 パリのル・ブールジェ空港には、太陽が燦々と輝いていた。旅客たちは、数分のうちに、ロンドンのクロイドン空港をさして出発しようとしている、定期便プロミシューズ号に乗り込もうとして、場内を横切っていった。
 ジェーン・グレイ嬢は、最後に乗り込んで、後部の十六号席についた。ある旅客たちは、中央の戸口から、小さい配膳室と二つ並んだ洗面所との前を通って前部の客室へ入っていった。たいていの人はもう席に着いていた。通路の向う側では、誰かが話していた……鋭い、かん高い女の声がおもに聞えていた。ジェーン嬢は、ちょっと唇を歪めた。彼女はその特別の調子の声に、聞き覚えがあった。
「あらまあ……不思議ですこと……思いがけない……どちらへおいで遊ばしましたの? ジュアン・レ・パン?……そうですの……ああ……ええ、ル・ピネへ……そうでございますの……ええ、あそこも相変らずに混みあっておりますわねえ……もちろん、ご一緒にかけましょうよ。あら、駄目なんでございますの? 一体どなたが?……ああわかりましたわ……」
 その時、男の声……外国なまりのある、丁寧な男の声がした。
「奥様、よろこんでおかわりいたしましょう……」
 ジェーン嬢は、横目でちらと見た。
 大きい口髭のある、玉子なりの頭をした、小柄な、年配の男が、丁寧に、ジェーン嬢の反対側の席から、手荷物を持って、席を移しているところであった。
 ジェーン嬢は、ちょっと首をめぐらしてこの見知らぬ紳士の、親切な行為の原因となった、不意に出遇ったらしい、二人の女性たちをながめた。ル・ピネという名が、ジェーン嬢の好奇心をそそったのであった。それは、彼女も今まで、そのル・ピネで過ごしてきたからであった。
 その女性たちの一人は、よく知っていた。その夫人をこの前に見たのは、バカラ(トランプの賭博遊び)のテーブルで、その時、夫人の手は、握ったり、開いたりしていた……そのきゃしゃな、ドレスデンの陶器のような顔は、赤くなったり、青くなったり、交互に変っていた。……少し努力すれば、その名を想い出すことができると思った。友人が、その夫人の名を言っていた……そして、こう言ったっけ。「あの人は、貴族夫人なんだけど、本物の貴婦人ではないのよ……コーラスガールか何かだったんだわ」と。
 その友人の声には、深い軽蔑が感じられたっけ。そんなことをいったのは、いわゆる、『肉を減らす』ことでは、一流のマッサージ師の、メエシイであった。
 もう一人の婦人の方は、『本物』らしいなと、ジェーン嬢は思った。競馬好きらしい地方の名家出タイプだな、と思ったきりで、ジェーン嬢は、二人の女性のことは忘れて、ル・ブールジェ空港の景色を、窓から眺めて楽しんでいた。ほかの旅客機もたくさんならんでいた。その中の一つは、金属の大きな百足《むかで》のように見えた。
 ジェーン嬢が、何としても見ないでいようときめた場所が一個所あった。それは、自分の真正面の席であった。そこには、一人の青年が坐っていた。
 その青年は、派手な青い色のトックリ型のセーターを着ていた。ジェーン嬢はその衿より上部は、決して見ないことにきめていた。さもなかったら、きっと、眼と眼がかち合うだろう。そんなことになったらいけない!
 整備員たちが……フランス語で叫んだ……エンジンはうなった。……調子がおちて……またうなった。……車輪止めがとり去られ……機はすべりだした。
 ジェーン嬢は、はっとした。空の旅は、これで、二度目でしかなかったので、彼女はまだ、胸をときめかすのであった。何だか……何だか……あの垣根に、突進しそうに思えた。……いや、もう離陸しているのだ……上る……あがる……大きく旋回して……もう、ル・ブールジェは、遙か、下の方にあった。

 ……冒頭より

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