「無関心な人びと」

アルベルト・モラヴィア/大久保昭男訳

ドットブック 504KB/テキストファイル 256KB

700円

モラヴィア21才のときの処女作。出版と同時に、イタリア文壇未曾有といわれる反響を呼び、一般読者からも熱狂と興奮で迎えられた。だが、この作品は、一部の顰蹙と反感を買い、のちにカトリック教会によって禁書とされた。以下の紹介文がすべてを語る。「モラヴィアはスタンダールのごとく偏見がなく、観察鋭く、非感傷的・人間的であり、まとに貴重な現代作家の一人である」(ニューヨーク・タイムズ)、「非常に刺激的で、異常な本…モラヴィアはあらゆる可能性を秘めている作家だ」(ニューヨーカー)、「これほどの問題作はない…一読をおすすめする」(パリ・マッチ)

アルベルト・モラヴィア(1907〜90)ローマ生まれのイタリアの作家。ブルジョア階級の頽廃と倦怠の生活を、深い心理分析と濃厚な筆致で描き、現代のヨーロッパ世界を代表する人気作家となった。主な作品に、『仮装舞踏会』『ローマの女』『軽蔑』『倦怠』など。
立ち読みフロア
 カルラが入ってきた。着ているのは栗色の薄地の服で、そのスカートがひどく短いので、扉を締めようとわずかに体をひねったときにそれが掌の幅ほどもずり上がり、ストッキングのたるんだ折り返しがむきだしになった。しかし彼女はそれには気がつかないらしく、なにかいわくありげに前を見つめ、疲れたようなおぼつかなげな身ごなしで注意深く足を運んだ。電気スタンドがたったひとつついていて、ソファーに腰を下ろしているレオの両脚を照らしていた。応接間の残りの部分は灰色の薄暗がりのなかに沈んでいた。
「母は着換えていますから」と彼女は近寄ると言った。「すぐに降りてきますわ」
「いっしょに待とうよ」と男は体を前にかがめながら言った。「カルラ、ここへおいでよ。ここへ掛けなよ」
 しかしカルラはこの申し出にしたがわなかった。スタンドのかさの形どおりに光があたりをまるく照らしていて、その光のなかの家具や置物は、暗がりのなかに散らばっている、陰気で精彩を欠いているほかの家具と対照的に、その色彩と堅牢を誇っているかに見えた。カルラは電気スタンドがのっている小卓のそばに立ち、光の輪の方に目を向けたまま、中国風の焼物のろばの動く頭を指でいじっていた。このろばには、二つのかごを両脇にかかえた田舎風の仏陀、というよりむしろ、花模様の衣をまとった、ふとって腹のつきでた百姓らしい人物がまたがっていた。ろばの首は上下にぶらぶらと揺れた。目を伏せ、口を結んだカルラの頬に電灯の光が差していた。彼女はまるで無心にろばの首をいじっているかに見えた。
「あたしたちといっしょに夕食をおあがりになるの?」と彼女は顔を上げずにしばらくして言った。
「もちろんさ」とレオは答え、巻煙草に火をつけた。「迷惑なのかい?」ソファーに腰を沈め、上体をまるめた姿勢のまま、彼は貪欲そうな眼差しで娘をうかがった。ふくらはぎがいくぶん曲っている脚、平たい腹、重そうな二つの乳房のあいだの黒く小さい谷、かよわそうな腕と肩、そしてきゃしゃな首の上のひどく重たそうなまるい頭。
《おお、なんてきれいな娘だろう》彼は胸のなかでくり返した。《なんてきれいな娘だろう》午後のあいだしばらくまどろんでいた欲望がふたたび目を覚ましていた。その頬に血がのぼった。欲望に駆られて叫びだしたい思いだった。
 カルラは、もう一度ろばの頭をつついた。「今日、お茶のときに、母がとてもいらだっていたの、お気づきになった? みんなが見ていたわ」
「わたしには関係ないことさ」とレオは言った。そして体を前へかがめると、なにげない様子で娘のスカートのへりをつまみ上げた。
「自分の脚がとてもきれいだってこと、しっているのかい? カルラ」と言いながら、彼は興奮したらしい酔ったような顔を娘の方へ向けた。彼の努力にもかかわらず、陽気そうなつくり笑いはその顔に浮かばなかった。しかしカルラは、顔を赤らめも返事もせずに、そっけないしぐさでスカートのへりを下へ下げた。
「母はあなたのことで妬いてるのよ」と彼女は相手を見ながらやおら言った。「だから母はあたしたちみんなの生活をめちゃめちゃにしてしまうのよ」レオは《だからどうしろと言うんだい?》という意味のしぐさを示すと、ソファーにあお向けに寝ころび、両脚を組んだ。
「わたしのようにするんだな」と彼は冷たい調子で言った。「嵐がはじまりそうだと思ったら、もうしゃべらないことだ。……すると嵐は通り過ぎて、万事もとどおりさ」
「あなたにとってはそうかもしれないけど」とカルラは低い声で言った。男の今しがたの言葉がこの娘の胸に、古く激しい怒りをよみがえらせたかのようであった。「あなたにとってはね……。だけどあたしたちにとっては、あたしにとっては」彼女は怒りに唇を震わせ、目を大きく見開きながら、自分の胸を指さしてくり返した。「いっしょに暮らしているあたしにとっては、そうはいかないのよ」そのあとに一瞬の沈黙がきた。「おわかりかしら」と彼女はあいかわらず低い声で続けた。恨みの思いのために、ひとつひとつの単語に外国人の言葉のように奇妙なアクセントがついた。「こういうことがどんなにやり切れなく、どんなに惨めで情けないかということが。そして、それを毎日毎日見ていなければならない生活がどんなものかということが……」応接間の半分を包んでいる薄暗がりから、恨みの黒い波が立ち上がり、カルラの胸に迫ったかとみると、泡も残さずに黒い姿を消した。彼女は目を見開き、憎しみの発作に全身をひたしたまま、息を詰らせて黙っていた。
 二人は互いに見つめ合った。《やれやれ》とレオは相手の剣幕にいくぶんおどろきながら思った。《ちょっとばかり厄介だな》彼は背をかがめるようにして煙草ケースをとりだし、「一本、どう?」と愛想よくそれをカルラに差しだした。カルラはそれを受けとって火をつけると、ぷっと煙を吐き、ソファーに一歩だけ近寄った。
「とすると」とレオは言いながら、カルラを下から上に見上げ、「ほんとにもう我慢できないのかい?」二人の対話のなかにある狎(な)れ狎(な)れしげな調子にいくぶんうろたえたようにカルラはうなずいた。「そうなら」と彼は続けた。「そういう場合、どうしたらいいと思う? 住居を変えるんだね」
「結局、そういうことになると思うわ」とカルラはいくぶん大げさな口調で答えた。しかし彼女には、なにか間違った滑稽な役割を演じているような思いがあった。こうして、彼女のこの怒りの傾斜は、それと気づかぬままに、彼女をこの男の方へ押し流していくのであった。彼女は男をじっと見た。ほかの男たちにくらべて、よくも悪くもなかった。いや、明らかにより優れていた。しかも、今宵、この薄暗い応接間で、彼女を罠に落とそうとするまでに、彼女の成長と成熟を十年間も待っていたという、宿命とでも言うべきものが彼にはあった。
「住居を変えるのさ」と彼はくり返した。「わたしんところへくるのさ」
 カルラは首を振った。「気が違ったの……」
「ばかな……」レオは手を伸ばして、カルラのスカートをつかんだ。「君のおふくろはもう馘(くび)にするのさ。悪魔にでもくれてやろう。そして君は欲しい物をなんでも持てるんだ、ねえカルラ……」彼はスカートを引っ張った。光を帯びたその眼差しが、相手の怯えたようなためらうような顔から、ストッキングの上にちらちらと見えている白い肉の部分に移った。《家へ連れていって、ぜひとも抱いてやろう……》胸のなかで彼はそう思った。すると息が詰った。「欲しい物をなんでもだよ。まず洋服だ、それも山ほどな。そして旅行だ。二人で旅行するのさ……。君のように可愛い娘が今のようなままでいるのは、まったくの罪というものだよ……。なあ、カルラ、わたしといっしょに暮らすことにしよう……」
「そんなことできっこないわ」カルラは自分のスカートをつかんでいる相手の手を空しく振りほどこうとしながら言った。「母がいるんだもの、できっこないわ……」

……
冒頭より

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