「即興詩人」(上下)

アンデルセン著/神西清訳

(上)ドットブック 200KB/テキストファイル 154KB
(下)ドットブック 222KB/テキストファイル 179KB

各400円

童話作家として有名なアンデルセンの手になる、抒情あふれる長編小説。ローマの片隅の貧しい家に生まれたアントニオは、ふとしたきっかけから即興で詩をつくってみせる即興詩人になることを夢見る。そんな彼の才能をかってくれる名家出の嬉しい友人もできたが。……ローマの謝肉祭、復活祭のなかで起こる歌姫アヌンツィアータをめぐる思いもかけない事件がアントニオを巻き込む。ローマを逃れてナポリへ、ポンペイへ、ヴェズヴィオ火山へ、ペストゥムの神殿では不思議な盲目の少女と出会う。再びローマを通ってはるか彼方のヴェネツィアへ。そして運命の糸は再び「歌姫」との出会いをもたらす。イタリア旅行案内としても楽しめる一冊。

ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805〜75)デンマークの作家。貧しい靴職人の子に生まれ、15歳のときコペンハーゲンへ出てオペラ歌手を志すが挫折、だが運よく援助を得てコペンハーゲン大学へ。その後は各地を旅し、帰国後「即興詩人」を書いて広く認められるが、同時に創作童話にも手を染め、これがその後の作家としての道を決めた。

立ち読みフロア
 私たちがディドに扮する新しい歌姫を見ることになっていたのは、ローマ第一のオペラハウス、アリベルト座であった。空に舞うミューズの神々を描いた豪華な天井も、オリンパス山の全景をあらわした幕も、客席の一つ一つの金色の唐草模様も、そのころは皆まだ新しかった。一階から五階まで、劇場はぎっしり人で埋まった。ボックスの一つ一つのランプに火がはいって、場内は火の海のような明るさだった。ベルナルドは美しい婦人が自分のボックスにはいるたびにそのほうへ私の眼を向けさせ、美しくない婦人だとさんざん悪口を並べ立てた。
 前奏曲がはじまった。これは音楽で説明するこのオペラの発端(ほったん)の部分であった。すさまじい暴風が海上を荒れ狂って、エネーアスをリビアの海岸へ押しながす。嵐の恐怖は敬虔(けいけん)な聖歌のうちにだんだん消えて、歌ごえが勝ちほこるように高まる。フルートの静かな調べに乗って、ディドの胸に目覚める愛の夢にも似た感情が、それまで私が自分でも気のつかなかった感情が、そっと私に近寄ってきた。猟人(かりゅうど)の角笛がひびき、ふたたび嵐が起こって、私が恋人たちといっしょに秘密の洞穴にはいると、そこではすべてのものが愛を、深い不協和音に爆発する強い騒がしい熱情を高らかに歌って、ここで幕が上がった。
 エネーアスが出発しようとしている。アスカニウスのためにヘスペリア〔「西国」の意。ギリシア詩人がイタリアを、ローマ詩人がスペイン、時にはイタリアを指して呼んだ名〕の王国を征服するためである。彼は自分のために名誉も幸福も犠牲にしてくれたディド、他国の男である彼を迎え入れた彼女を捨てようとしている。彼女はしかしまだそれを知らない。「しかしやがてテウクルスの軍勢が獲物を持った黒蟻(くろあり)の群れのように岸に進んで来れば、夢はたちまち消えてしまうだろう」と彼が言う。
 ここでディドが登場した。その姿が舞台に現われるや否や、深い沈黙が場内にひろがった。彼女の、威厳はあるが猛々(たけだけ)しくはなく、魅力のある身のこなしがすべての人の心をとらえた。私も例外ではなかったが、ディドはあらかじめ私が想像していたのとはちがっていた。舞台に立った彼女は品位があって情深く、限りなく美しくもまた聡明な、ラファエロでなければ描くことのできないような女性であった。黒檀(こくたん)のように黒い髪が、美しいアーチ形の額をふちどり、黒い眼には溢れるばかりの表情があった。割れんばかりの拍手喝采が起こった。この敬意は美しさ、ただ美しさだけに払われたものだった。というのは彼女がまだ音符の一つも歌っていなかったからである。私はただ彼女の額がすうっと赤らむのを見ただけだった。彼女が、驚嘆している観衆に頭をさげると、彼らは咳(せき)ひとつせずに彼女の朗咏調の美しい抑揚に耳を傾けた。
「アントニオ」と、ベルナルドが小声で呼んで私の腕をつかんだ。「あの娘(こ)だ! 僕が気がちがったのか、あれがあの娘、あの逃げて行った小鳥なんだ! いやいや、僕は間違ってはいないぞ、あの声だってそうだ、忘れようたって忘れられるもんじゃない!」
「誰のことだ?」と私がきいた。
「ゲットーのユダヤ娘さ」と彼が答えた。「だがそんなことはありえないような気もするな。いやちがう、人ちがいだった」
 彼は黙ったなり、不思議な美しさの妖精かと思われる存在を見つめて、われを忘れていた。彼女は自分の恋の幸福を歌った。人間の胸から、調べ妙(たえ)なる音の翼に乗って流れ出る深い純粋な感情を、調べ美しく吐き出す心の声であった。今まで知らなかった悲しみが私の心をとらえた。私はその歌の調子が私の胸に、いちばん奥底に埋もれていた思い出を呼びさますような気がした。私もベルナルドといっしょに「彼女だ!」と叫びそうになった。そうだ、今までもう何年となく、考えたことも思い出したこともない彼女が、驚くほどはっきり私の前に立っていた。私がまだ子供の時クリスマスに「天の祭壇」教会でいっしょに説教をした彼女、私の褒美を横取りにして行ってしまったびっくりするほど声の美しい、あのくらべものもない美少女だった。私は彼女のことを考えた。そしてこの晩、見れば見るほど、聞けば聞くほど、私の心に「彼女だ、彼女だ、ほかの誰でもない!」という印象が深くなった。
 やがてエネーアスが彼女に、自分は行ってしまう、自分たちは結婚したのではない、二人の婚礼の松明(たいまつ)は見たこともないと言った時の、彼女のその胸を過ぎたものすべて――驚き、悲しみ、激怒の表情は、なんと驚嘆すべきものだったろう! そして彼女が、その堂々たるアリアを歌った時には、大海の波が雲に打ちつけるのかと思われた。全く、彼女がひろげて見せたメロディーの世界は、いったいどういうふうに言い現わしたらいいのだろう! 人間の胸から出るものとは思われないこの調子を、形に表わすものはないか、と私が考えあぐねていると、ひろげた翼の先で広い大空を切り、深い海に落ちたかと思うと、ふたたび舞いあがろうと波を切り分けて、歌いながら息を引きとる白鳥が見えた。一斉に拍手が起こって、満場にひびきわたった。
「アヌンツィアータ! アヌンツィアータ!」と叫ぶ声に、二度、三度、彼女は熱狂した観衆の前に姿を現わさなくてはならなかった。
 
……「ローマの謝肉祭」より

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