「アイヴァンホー」(上・下)

ウォルター・スコット/中野好夫訳

(上)ドットブック 497KB/テキストファイル 271KB
(下)ドットブック 493KB/テキストファイル 267KB

各900円

中世イギリスのサクソン人とノルマン人の対立を背景に描かれた恋と冒険の騎士道絵巻。サクソンの郷士セドリックの子アイヴァンホーは、サクソン王アルフレッドの後裔であるロウィーナ姫を恋して父の意向に反し、勘当される。彼はノルマン人リチャード獅子心王の臣として十字軍に加わるが、リチャード王の弟ジョンは、兄王の外征中に王位をねらう。アイヴァンホーとリチャード王はひそかに帰国して、王位を守る。義賊ロビンフッドも力を貸した。ジョンと金融上のつながりを持つユダヤ人アイザック、およびその娘レベカも登場、レベカは負傷したアイヴァンホーを看護し、恋におちる。だが、最後にはセドリックの勘当も解け、アイヴァンホーはロウィーナ姫と結婚する。

ウォルター・スコット(1771〜1832)スコットランドのエディンバラ生まれ。少年時代、病弱なために祖父の経営する田舎の農園にあずけられ、そこで美しい自然と古い伝説や民謡に親しむ。やがてエディンバラ大学で法律を学び弁護士になったが、公務のかたわら著述。物語詩「湖上の美人」などを書き名声をあげた。のちには歴史小説に新分野をひらき、「ウェイヴァリー」「ガイ・マナリング」などを発表した。「アイヴァンホー」は、彼の代表作であり、傑作である。

立ち読みフロア


 かく語り合うまにも、日はかたむき、食(くら)いあきたる豚の群は、いぶせき牧舎(ぼくしゃ)さして帰り行きぬ。心すすまねど、追わるるままに、姦(かしま)しく吠えたてつつ、おのがじしその棲家(すみか)へと。
 (ポープ訳「オデュッセイア」)

 ドン河の流れのうるおすあたり、その名もメリー・イングランドと呼ばれるこの地域一帯も、かつて大昔には、シェフィールドからあの楽しい町ドンカスターのほとりまで、美しい丘脈(おかなみ)、そして渓(たに)々をおおって、見わたすかぎり広大な森林がひろがっていたのである。いまでもウェントワス、ウォーンクリフ・パークなどの旧城下町や、またロザラムの周辺などには、その広大だった森の名残りがのこっている。かつて昔、物語で名高いウォントリーの竜が徘徊したというのもここであれば、くだってバラ戦争のころ、いくどか血みどろの内戦が闘(たたか)われたのもここだった。いや、そればかりではない、イギリスの古謡にその勲功(いさおし)をうたいはやされているあの勇敢な法外(アウトロウ)武士団の連中が、さかんに活躍したのも、ここであった。
 さて、この物語の舞台は以上の通りであるが、他方、時代はかのリチャード一世王の晩年、多年にわたる異国での囚(とら)われから、いつかはゆるされてかえるという期待も、いまでは望みというよりは、むしろはかない空頼(そらだの)みになってしまっていたころであった。その間、国民たちは、あらゆる圧制の下に苦しみ、もはや絶望のドン底に沈んでいた。先々王スティーヴンの治下で、すっかり法外な権力を握ってしまった貴族たちは、その後賢明なヘンリー二世の治世になって、やっとある程度、王の統制下におかれるようになっていたが、それもまたこのころになると、完全に旧特権をとりもどしていた。へっぴり腰の枢密院の干渉など、もとより頭からばかにして、城は補強する、家臣はふやす、周辺のものは片っぱしから切りしたがえるという具合で、とにかく全力をつくして兵力を集中していた。つまりは、やがて起こるにちがいない国家の動乱に際して、一躍頭角をぬきんでようための、いわば実力を養っていたのだった。
 そうなると、その下の階層、つまり、郷士(フランクリン)と呼ばれる連中だが、これはイギリス憲法の精神にもとづいて、立派に封建的圧制からは独立した特権を獲得していたのであるが、このほうの立場も危うくなってきた。もっとも、普通よく見る例であるが、もし彼等が付近の誰か領主の保護を受けいれ、その家に仕えてなんらかの封建的役職につくとか、でなければ、なにか相互援助同盟のようなものを結んで、諸侯の冒険には必ず味方につくとかいうことにでもなれば、もちろん一時の平安は買えたろうが、それはまた同時に、大きな犠牲をともなっていた。すなわち、すべてイギリス人にとっては第一の宝であったはずの独立を失うことであり、庇護(ひご)者である諸侯が、もし野心からなにか無謀な戦争にでもでるようなことになれば、たちまちその一味に巻きこまれる危険があった。といって一方、この危険な時代に微力なものが諸侯の勢力からはなれて、もっぱら自分たちの平和政策や国法を信頼して身の安全をはかろうとしたところで、強大諸侯のほうでは、挑発、強圧の方策くらいはいくらでもある。いじめ、苦しめ、果ては滅亡にまで追いこむのに、口実などにはいつだってことは欠かぬ。いや、意志さえほとんど必要ないのだった。
 貴族の横暴がいよいよ高まり、下の諸階層がますます苦しむというこの事態については、その原因は遠くノルマンディ公ウィリアムのイギリス征服にあったといってよい。その後すでに四世代もたっていたのであるが、それでもまだノルマン人とアングロ・サクソン人との反目感情は消えず、共通の一つ言語、相互的な利害ということによって、相敵視するこの二つの民族を融和させるまでには至っていなかった。つまり、一方は依然として勝利の優越感をもっていたし、他方はまたあらゆる敗北の苦痛の中で呻吟していた。ヘイスティングズの戦の結果として、あらゆる権力はノルマン貴族の手に握られており、しかも、歴史がはっきり示しているように、それらはなんの容赦もなく行使されていたのである。サクソン王族や貴族たちは、ほとんど一人の例外もなく、殺されるか、封土を奪われるかしていた。また事実、二流、三流の地主クラスまで下りてみても、現在父祖の国というのに土地を所有しているものは、決して多くはなかった。歴代の王の政策は、征服者に対し当然宿怨(しゅくえん)をいだいているはずの一部サクソン人の手から、合法、非合法を問わず、あらゆる手段に訴えてその権力を奪ってしまうことだった。とにかくノルマン系の王という王は、目に見えて同民族の人民たちを偏愛した。たとえば私有猟園法とか、その他いろいろの新法は、もともともっと自由で寛容だったサクソン体制の精神からいえば、まったく思いもよらぬものばかりだったが、それががっちりこの被征服民族の首根っ子に結びつけられ、そうでなくても彼等が背負わなければならなかった封建制の鉄鎖の上に、さらに重荷を加えたものだった。宮廷や、またその豪華さを模した強大貴族たちの城中では、ノルマン・フレンチだけが用語だった。法廷での弁論、判決もまた、同じ言葉で行なわれた。要するに、フランス語だけが、紳士の言葉、武士の言葉、いや、法廷の言葉であって、一方、より男性的であり、表現力も豊かだったアングロ・サクソン語のほうは、ほかの言葉をなんにも知らぬ田夫野人だけの使う言葉になってしまっていた。だが、そうはいっても、土地の領主と、他方被圧迫民族ではあるが、土地を耕す下層民との間では、やはりなにか意志の疎通はなしですまない以上、ぜんじ一種の方言の発生を促した。つまり、フランス語とアングロ・サクソン語との一種の合成語がそれであり、それによって両者は、お互い意志を通じ合うことができたのである。そしてこの必要が、次第に今日の英語を生むようになったのであり、そこには征服者の言語と被征服者の言語とが、実にうまくまじりあっており、その後またギリシャ語、ラテン語からの移入があったり、さらに南ヨーロッパ諸国の口語まで採り入れられて、いよいよ豊富に、そしてまた美しく発達していったのである。
 さて、まずこれだけのことは、ぜひ一般読者諸君のために、書いておかなければならないように思えるのである。戦争とか、反乱とか、そういった大きな歴史的事件だけからいえば、ウィリアム二世以後は、もはやアングロ・サクソンズなどという独立した民族の存在は、まったくあらわれないのであるが、彼等とその征服者たちとの間に見られる大きな民族的差異、言葉をかえていえば、かつては彼等もまた輝かしい過去をもっていたのが、いまはこの通り非運に沈んでしまったのだという記憶があり、そのためにエドワード三世の治世〔一三二七〜七七年〕にいたってもまだ依然として、征服から受けた傷口はそのままに残っており、勝者ノルマン人と敗者サクソン人とのそれぞれ子孫たちの間には、こえることのできない一線を画しつづけたのであった。

……上巻
冒頭より

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