「居酒屋」(上下)

エミール・ゾラ/斎藤一寛訳

(上)ドットブック 331KB/テキストファイル 228KB

(下)ドットブック 321KB/テキストファイル 216KB

各巻600円

愛人に去られ、まじめな職人と結婚して慎ましい幸福に恵まれたと思ったのも束の間、貧困にうちひしがれて夫は狂い死にし、ついには自分もいたましい死をとげる洗濯女、ジェルヴェーズ。その数奇な一生を描き、パリ下層社会の悲惨な実態を活写したゾラの傑作。巨大な連作「ルーゴン=マッカール叢書」中の最高の代表作のひとつ。

エミール・ゾラ(1840〜1902) フランスの作家。7歳のときイタリア人の父を亡くし、パリへ出て苦闘する。バルザック、フローベール、ゴンクールなどの刺激を受け、68年に書いた「テレーズ・ラカン」で注目される。71年には「第二帝政時代における一家族の自然的社会的歴史」と銘打った大作「ルーゴン・マッカール叢書」に着手し、93年に全20巻を完成した。これがゾラの代表作であり、「居酒屋」「ナナ」「ジェルミナール」「獣人」「大地」などはすべて、この中に含まれている。
立ち読みフロア
 朝の二時まで、ジェルヴェーズはランチエを待っていた。やがて、胴着のままでいたので、窓から流れ込む冷気に身をうちふるわせながら、両の頬を涙でぬらし、熱のある体を横ざまに寝床に投げると、眠ってしまった。一週間このかた、『両頭の犢(こうし)』で一緒に食事をすまして出てくると、子供たちといっしょに寝かせるために彼女を家に返したまま、良人(おっと)は夜遅くでなければ帰って来なかった。そして仕事を探していたと語った。その夜、彼女は良人の帰りをうかがっていると、グラン・バルコンの舞踏場に入って行く彼の姿を見たように思った。そこの十か所の窓は燃え上って、火の波は外並木通りの広い暗黒を照り輝かせていた。そして彼のあとには小柄(こがら)なアデールの姿を見た。彼らと同じ飲食店で食事をしていた、この金物磨(みが)き女工は、戸口の電燈の煌々(こうこう)たる光の下を肩を並べて通らぬために腕をといたばかりだといったように、五、六歩あとから両の手を振り振り、歩いていった。
 ジェルヴェーズは、五時ごろ目覚めると、体はこわばり、腰は挫(くじ)けそうだった。彼女はわっと泣き出した。ランチエは戻って来なかった、始めて彼は外泊したのだ。彼女は細紐で天井に結いつけられた棒切れからたれ下っている、色あせたペルシャ更紗(サラサ)の下の、ベッドの縁(ふち)に腰をかけた。そして、涙におおわれた眼で、哀れな家具つき部屋を静かに見わたした。家具といっても抽斗(ひきだし)の一つ欠けた胡桃(くるみ)製の箪笥(たんす)が一個、藁椅子(わらいす)が三脚、そこにかけた水壷(みずつぼ)の転がっている油じみたテーブルが一個であった。それに子供たちの鉄のベッドが持ち込まれていたが、箪笥の前にたち塞(ふさ)がって、部屋の三分の二を占領していた。部屋の片隅には、ジェルヴェーズとランチエとのトランクが、大きな口をあけてからっぽな腹を見せ、その底には男の古帽子がシュミーズと靴下の下積みになっていた。一方、壁には、家具の背の上に、孔(あな)のあいた肩掛けや、泥だらけのズボンや、古着屋も買わない、ぼろぼろの古着などがかかっていた。暖炉棚(だんろだな)の中央の、ちぐはぐな二個のブリキの燭台の間には、公設質屋の、一束の淡紅色の質札があった。それでも、これがこの旅館でも上等なほうの部屋で、並木通りを見下す二階にあった。
 その間、二人の子供は、同じ枕(まくら)に並んでうち伏して眠っていた。八歳になったクロードは小さな手を蒲団の外に投げ出して、ゆるやかな呼吸をしてた。一方、四歳になったばかりのエチエンヌのほうは、兄の頸玉(くびったま)に腕を差しかけて微笑(ほほえ)んでいた。母親の潤(うる)んだ眼差(まなざ)しがこの二人の上に注がれると、彼女はまたもや、わっと泣き出した。そして、もれ出る微(かす)かな叫び声をうち消そうと、口にハンカチを押し込んだ。やがて、床(ゆか)に落ちている古靴をはくことも忘れて、素足のまま再び窓ぎわに肱(ひじ)をつくと、遠い歩道を見守りながら、昨夜のように待ち暮らした。

……巻頭より


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