「ジェイン・エア(下)

シャーロット・ブロンテ/大井浩二訳

ドットブック版 327KB/テキストファイル 281KB

500円

ジェインは十八歳になったとき、広告でソーンフィールドに家庭教師の口を見つける。そして雇い主で広大な屋敷の持ち主ロチェスターと出会う。ごつごつした感じの気むずかしいこの醜男に、ジェインはいつしか魅かれていく……二人は結婚を約束するまでになるが……。個性ゆたかな女性と、熱情をそなえた男との恋愛を描き切った屈指の名編。
立ち読みフロア
「感謝だって!」とロチェスターさまは叫んでから、荒々しい語調でつけ加えた――「ジェイン、ぼくの求婚をすぐに受けいれてくれたまえ。こういうんだ。エドワード――ぼくの名前を呼んでくれたまえ――エドワード、あなたと結婚します、と」
「本気なんですの? ――本当にわたしを愛してくださいますの? ――真実わたしを妻にと望んでいらっしゃいますの?」
「そうだとも。誓いを立てることできみが満足できるなら、誓ってもいい」
「それなら、あなたと結婚します」
「エドワードだ――ぼくのかわいい妻!」
「エドワードさま!」
「ここへおいで――ぼくに身をまかせたまえ」ロチェスターさまはそういうと、頬と頬をすりよせながら、まことに低い声で、わたしの耳に語りかけるようにつけ加えた。「ぼくを幸福にしてくれたまえ――ぼくはきみを幸福にするよ」
「神よ、お許しください!」しばらくしてロチェスターさまは言葉をついだ。「人間よ、ぼくのじゃまをしてくれるな。ぼくにはジェインがいる。ぼくはジェインをはなさないぞ」
「じゃまをする人間なんて、いませんわ。わたしには、とやかくいう親類などおりませんもの」
「そうだ――それが一番ありがたい点だ」
 もしわたしがそれほど強く愛していなかったら、喜びにあふれたロチェスターさまの口調や表情を露骨すぎるものに思っただろう。だが、別離という悪夢からさめ、結婚という天国に招かれた気分でいたわたしは、そばに坐ったまま、なみなみとつがれてさし出された祝福の杯のことばかりを考えていた。なん回となく、ロチェスターさまは「幸福かい、ジェイン?」ときき、わたしもまた、なん回となく、「ええ、幸福ですわ」とくりかえすことがつづいた。そのあと、ロチェスターさまは、こうつぶやいた。「この行為の償いはできる――償いはきっとできる。ぼくは友だちのいない、冷たく、わびしい境遇にあるジェインを見つけたのではなかったか? これからはぼくが守り、いつくしみ、慰めてやろうというのではないか? ぼくの心には愛がなく、ぼくの決意には堅固さが欠けているとでもいうのか? この償いは、神の裁きの座でおこなわれるのだ。神がぼくの行為をお許しくださることを、ぼくは知っている。世間の判断――こんなものとは手を切ってやる。人間の意見――こんなものには目もくれるものか」
 だが、この夜は一体なにが起こったというのだろうか? まだ月は沈んでいないのに、わたしたちは夜の闇につつまれていた。すぐそばにいるロチェスターさまの顔もさだかには見えない。それに、このトチノキはなにを悩んでいるのだろうか? 身をよじり、うめき声をあげている。風は月桂樹の散歩道でうなりを生じ、わたしたちの頭上をさっと吹きぬけて行く。
「なかにはいらなくては」とロチェスターさまはいった。「天気が変わったな。きみとなら朝まででも坐っていられるんだが」
「わたしだって、あなたとなら」とわたしは心のなかで思った。口に出していいさえしたかもしれない、わたしの眺めていた雲から、青ざめた閃光がさっときらめいたあと、ガラガラという雷鳴と、間近かで割れるような音とが響きわたりさえしなければ。わたしは雷光にくらんだ目を、ロチェスターさまの肩にかくすことしか思いつかなかった。どしゃぶりの雨が降りはじめた。わたしはロチェスターさまにせき立てられるようにして、散歩道から庭へと走り、家のなかに駆けこんだが、敷居をまたがないうちに、二人ともずぶぬれになっていた。玄関のホールで、ロチェスターさまがわたしのショールをはずし、わたしのほぐれた髪のしずくをはらいのけているところへ、フェアファックス夫人が自分の部屋から出てきた。最初は、わたしもロチェスターさまも、その姿に気づかなかった。ランプがついていて、時計がちょうど十二時を打っていた。
「ぬれたものはすぐに脱ぐんだよ。行ってしまうまえに、おやすみだ――おやすみだよ、ねえ、おまえ」
 ロチェスターさまは接吻をくりかえした。わたしがその腕をはなれて、顔をあげたとき、そこに未亡人が青ざめた、こわいような表情で、口もきけずに立ちすくんでいた。わたしは笑いかけただけで、そのまま二階へ駆けあがって行った。「説明は別のときでもいいだろう」とわたしは思った。それでも、自分の部屋にはいったとき、ほんの一時的であれ、夫人が目撃した場面を誤解するのではないか、という考えが浮かんで、心が痛くなった。だが、やがて歓喜がほかのすべての感情をかき消してしまった。二時間におよぶ嵐のあいだ、風ははげしく吹き荒れ、雷鳴は近くで轟音をとどろかせ、稲妻はなん回となく射るようにきらめき、雨は滝のように降りつづけたが、わたしはちっともこわくなかったし、驚くことさえもなかった。その嵐のあいだに、ロチェスターさまは三回もわたしの部屋のドアまでやってきて、変わったことはないか、平気でいるか、ときいてくれた。それが慰めとなり、なににでも立ちむかう勇気をあたえてくれた。
 朝になって、わたしがベッドをはなれないうちに、アデールがわたしの部屋へ駆けこんできて、果樹園の奥のトチノキの巨木がゆうべの雷にうたれ、まっ二つに裂けてしまっていると報告した。

……二十三章より


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