「女性と民間伝承」

柳田国男著

ドットブック版 451KB/テキストファイル 153KB

500円

平安中期の女流歌人和泉式部は、無数といってもいいほどの多くの伝説につつまれている。著者は全国各地にみられる和泉式部にまつわる言い伝えにメスを入れ、そこにか つて顧みられなかった大切な日本人の歴史が潜んでいることを発見する。遊行女婦、歌比丘尼、刀自、念仏と物狂いなど、数多くの事例が和泉式部伝説とつながりのあることが明らかにされていく。日本の民間伝承にはじめて学問の光をあてた画期的著作。

柳田国男(やなぎだくにお)(1875〜1962)現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれ。日本における民俗学の開拓者。東京帝大卒業後、農商務省にはいり、仕事の関係で各地を旅行、同時に早稲田大学で農政学を講義する。山地の民俗に興味をいだき『遠野物語』を著わすが、以降は幅広く各地の民俗を研究・調査、「方言」「昔話」「伝説」「童謡」などをテーマにした多くの著作を著わした。

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誠心院の大きな石塔

 私は別にこの人の伝記について、深い興味を持っているわけでない。ただ和泉式部(いずみしきぶ)というような、一人の中世の女性にも、その周囲をめぐってたくさんの、かつて顧みられなかった問題が残っており、じっと見ているとなかなか大切な日本人の歴史が、その蔭に潜(ひそ)んでいるらしいということを、話してみたいのです。たぶん話をしているうちにはかえって皆様から注意を受けることが多かろうと思う。そうして結局は、単にむつかしい一つの問題を提出して去ることになるかもしれぬ。
 和泉式部は決して非凡な人傑でも何でもない。境遇と時代とにやや特色があるのみで、学問も文才も、ともに一通りであるのに、どういうわけか後世になるほど、しだいに有名になろうとしています。定家卿が選定したと伝える『百人一首』が、「歌骨牌(うたがるた)」になるまで盛んに行われたことが、一つの原因であることだけは疑いがありません。しかも彼女の真の事蹟は、実はほんのすこししかわかってはいないのです。たとえば幾つの年に、いつどこで歿したかということさえ、信用し得る書物には一つも見えておらぬにかかわらず、諸国の田舎には往々にしてその墓がある。そうしてこれに関連して珍しい昔話を語り伝えている。墓などは一人に一箇ずつのもので、したがって他の全部は必ず虚偽、もしくは誤謬(こびゅう)、もしくは何か別の理由がなければならぬが、どうしてまた正直なる地方の人が、これを信ずるに至ったか。実は私以外には今までこれを疑おうとした人も少なく、こういう伝説のある土地土地では、各自独立して真面目にこれを信じていました。そこにたぶんは何か共通の事情が隠れていることと思います。
 御承知のとおり和泉式部は、上東門院(じょうとうもんいん)の侍女でありました。後に二度までも地方官に縁づいたため、あの時代の京都の婦人としては、珍しく田舎の旅の経験を持っていましたが、なお歌集などを見るとことごとく都会生活をもって充(み)ちあふれ、天然に対する愛慕はもちろん、願い歓び一つとして、村の人らしい情緒を述べたものはないので、歌を狭隘(きょうあい)な都府上流だけの芸術にしてしまった責任は、同じ『百人一首』の中の式子内親王(しきしないしんのう)などよりも、かえってこの婦人のほうが多く分担せねばならぬくらいです。
 それゆえにもし歴史にこの人の生死が伝わらなかったとすれば、たいてい、よいほどの老齢に達して、京都の内で生涯を終わり、墓所もこの付近にあるものと推定しても不都合はないのであります。しかし単純にその理由から、現在京都にある和泉式部の墓を、正しいものと認めてよいかというと、それはまたはなはだしく不当であります。ところが今日の学者という人の中には、このくらいの程度で不完全な断定をしてしまい、地方人を誤りに導いた者がずいぶんあります。たとえば『国造本紀(こくぞうほんぎ)』というあまり確かでない古書の中に、大昔の諸国の名族の名が載せてあるのを見た者が、後日その近くの地方で古墳でも発見せられると、すぐにその人の墓だといってしまう類であります。
 京都では寺町通り、六角と蛸薬師(たこやくし)の間の西側の町を式部町といいました。百四、五十年前までは和泉式部町、または和泉式部前町といっていました。路を隔てて東側の新京極通り六角下ル中筋町四百八十七番地の誠心院という寺に、かなり久しい以前から、和泉式部の木像と称するものを安置し、寺付属の墓地には、また同じ人の墓というのがあったためであります。石塔は宝篋印塔(ほうきょういんとう)形の、座石三重、総高さ一丈一尺六寸、横八尺という雄大なもので、かたわらには二十五菩薩(ぼさつ)の石像が彫られてあった。図を見ると、もちろん製作はずっと後世のもので、とりわけ不思議なのは石の面に、正和二年五月の文字が刻してあるということです。これは和泉式部の生存より遙か後の、鎌倉期の終わりであるとともに、この石塔のできたと思われる時代よりは、またずっと前の年月である。いかなる事情からそんな文字が、いつまでもこの墓にともなうことになったか、問題の一つの糸口はこの方面からも開けてきます。

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 京の誠心院に古くから、和泉式部の木像として伝えたものは、すでに松平楽翁(まつだいららくおう)の『集古(しゅうこ)十種』の中にも採録せられている。私は実物をまだ見ないが、それよりもさらに以前の書物に、詳しくその姿を述べてあります。年は四十ばかりの尼で顔美しく、墨染の衣に花色の布帽子を被(かぶ)った坐像とあり、若狭(わかさ)の小浜(おばま)の法印寺(ほういんじ)にあったという、有名な八百比丘尼(はっぴゃくびくに)の像を始めとし、同じような木像はずいぶん国々の寺にあるものです。
 この木像と境内の大きな石塔とを和泉式部のだとする説は、我々が名づけて「伝説」というものであります。ある時代には土地でこれを信ぜぬ人はほとんどなく、したがって多くの書物にも書き留められていますが、なおそのためにこれを歴史と承認することはむつかしいものです。歴史にもいくらも間違いはあり得ますが、少なくとも現在我々の認めている歴史には、実際かつてあったという証跡があります。ところが誠心院のほうは記憶だけで、別にそうかもしれぬと思うだけの材料はなかったのです。この寺の庭には老木の梅が一本ありました。その名を軒端(のきば)の梅と称し、昔和泉式部が栽(う)えて詠(なが)めたという軒端の梅はこの樹であるかのごとくいいましたが、それがとうてい信用し得られぬ作り話であったのです。

……冒頭より


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