考証[時代劇]

稲垣史生著

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500円

時代考証の権威が「時代劇」の嘘を一刀両断。くわい型の髷(まげ)をした医者の嘘から始まり、町奉行、悪代官、岡っ引、仇討ち、江戸っ子の学力、江戸の汚職、殿中作法、忍者、吉原、岡場所、大奥、関所破りまで、時代劇に頻出する嘘を縦横無尽にめった切りして、真相をあかす。目からうろこの時代劇開眼。

稲垣史生(いながき しせい、1912〜96)時代考証家・歴史小説家。本名、稲垣秀忠。富山県出身。早稲田大学文学部国文学科を卒業。東京新聞記者、雑誌編集長を経て、文筆業に。『時代考証事典』『武家事典』『江戸生活事典』など著書多数。時代考証の第一人者としてNHK大河ドラマ『竜馬がゆく』『樅ノ木は残った』『勝海舟』などで時代考証を手がけ、第1回放送文化基金賞受賞。杉浦日向子は弟子であった。

立ち読みフロア
 テレビでは時代劇の視聴率がよく、一日平均六本ずつ放映しているが、その中に、よく「慈姑(くわい)形」の髷(まげ)を結(ゆ)った医者が登場する。これはとんでもない間違いで、本当は、坊主頭でなくてはならない。あれは医者に扮する俳優が、「坊主頭はいやだ」とゴネるために生じた、実にバカバカしい誤りなのである。
…………
 平安朝の典薬頭、丹波康頼(たんばのやすより)はその著『医心方』の冒頭に書いた。
「大医病を治するに無欲無求、大慈惻隠(そくいん)の心に発すべし」
 と。その仁術の精髄は今どこへ行った?
 医道の乱れは平安時代、律令体制の弛緩にはじまった。悲田院・施薬院はすがたを消し、有能な医師は藤原貴族の専属となってお髭(ひげ)の埃(ちり)を払った。そうでない藪(やぶ)や笥(たけのこ)医者は、宮廷の式微(しきび)と共に放浪して怪しい腕をふるった。呪術とチャンポンの気やすめ程度のものだが、薬代だけはちゃっかり取ることを忘れなかった。医者の質的低下はこの時にはじまっている。
 医者株の下落といえば、鎌倉・室町期を経た戦国時代より甚だしきはない。日本じゅうが戦乱にあけ暮れ、戦(いくさ)の度におびただしい戦傷者を出した。戦場でその負傷者を、すばやく手当てする外科医が必要である。
「創腫科」は当時の外科だが、文字どおり腫物やとげ抜き程度の医術であった。急遽おおぜい必要なとき、あるかぎりのとげ抜き医者でも動員するしかない。心得ある者はひとり残らず従軍させた。槍傷・刀傷が専門だからこれを「金瘡医(きんそうい)」という。
 が、まだまだ足りない。諸大名は急ぎ金瘡医を養成しようとした。が、武家時代では男なら、戦士として出陣するのが誇りであり、義務であり、また生きがいであった。男で出陣しない奴は、どこか障害ある者に違いない。まあ、それほどでなくても、体が弱いか臆病か、とにかく欠陥男であることは確かだった。残っているのはみな男の屑(くず)、それが医者になったのである。
 速成の金瘡医がいかにお粗末だったか『雑兵(ぞうひょう)物語』のエピソードで知ることができる。
 弥助は金瘡医の薬箱持だが、負傷兵に水を飲むな、声を出すな、はいいとして、葦毛(あしげ)の馬の糞尿が傷に効くと本気で言っている。『雑兵物語』の戦場描写は定評があり、実際馬の糞尿を飲んだことは『甲陽軍鑑』(甲州流軍学書)にもある。
 永禄五年(一五六二)武田信玄が武州松山城を攻めたとき、米倉丹後の嫡男彦次郎が敵弾を受け、金瘡医のすすめでまだ生温かい奴を、
「甘露、甘露」
 と飲んだなどとある。ばかな話だ。

 ところで戦国の金瘡医は、もちろん従軍に甲冑をつけず、野羽織・たっつけ袴に小刀を差すぐらいであった。すなわち軽装で武装せず、極力、非戦闘員たることを標榜(ひょうぼう)した。が、小心な男の屑、それでも間違って撃たれてはと、髪を剃り坊主頭を光らせて、遠くからでも無抵抗の医者とわかるようにした。髷は男の象徴だが、なりふり構っていられず剃ったのである。以来、医者は坊主頭がおきまりである。
 医者には男の屑がなる。この観念は以後ずっと変らず、江戸時代になっても医者といえば、男性ちゅうの能なしが、やむなく成り下る下職だった。

……巻頭の「医は算術こと始め」より


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