「明治の怪物経営者たち」(3)

小堺昭三著

ドットブック版 227KB/テキストファイル 142KB

300円

日本資本主義の創成期、大きな仕事をなしとげた男たちの苦闘と自負。本巻では、風流人にして死の商人、大倉喜八郎(おおくら・きはちろう)と、三井物産を足がかりに三井財閥をつくりあげた益田孝(ますだ・たかし)を切る! 昭和を駆け抜けた作家、小堺昭三の「男の切れ味」につづく「男論」第2弾!

小堺昭三(1927〜95) 福岡県大牟田市生まれ。株式新聞社に勤めたあと、火野葦平に師事して作家をめざす。1961年に「基地」が芥川賞候補作に、同年「自分の中の他人」が直木賞候補にもなった。梶山季之の推薦で「週刊文春」のルポライターに転進。以後取材記者としての経験を生かしたノンフィクション小説に取り組む。 代表作は「けむりの牙」「西武VS東急戦国史」「明治の怪物経営者たち」「カメラマンの昭和史」など。

立ち読みフロア

大倉喜八郎(おおくらきはちろう)――死の商人にして風流人

〔略伝〕天保八年(一八三七)越後国(現新潟県)の豪商の家に生まれる。明治六年(一八七三)、大倉組商会を設立し、西南戦争、日清・日露戦争などにおける軍需品の調達・輸送で巨利を得る。東京電燈会社、大日本麦酒、日本化学工業、帝国劇場、帝国ホテルなど幅広い事業を手掛けたほか、積極的に大陸進出をこころみた。昭和三年(一九二八)没。


ハイカラな越後人たち

 なぜなのか越後新潟には古来から、たいそうハイカラでナウい県民が多い。雪深く寒い地方にありながら、ふしぎに海のかなたの新文明を、一生けんめいに吸収してゆく気風があったようなのだ。一説には、北陸路を通ってくる京都文化が、刺激していたからだと言われている。
 尊皇攘夷の乱世――安政六年(一八五九)に開港したばかりの横浜の、外国人セールスマンから購入したランプを「最初に家庭で使用したのは長岡の人」という記録が残されており、わざわざ横浜までショッピングに出かけていったのだった。越後人はすでに採掘した原油を精製し、石油が燃料エネルギーの主役になる、その時代がくるのも予見していた。
 明治時代になるとすぐに田畑を処分し、大挙してアメリカへ渡航、写真術を学んで帰国、さっそく文明開化の東京において写真館を営業したのも新潟県人たちであった。
 東京―横浜間に《陸(おか)蒸気》が走る、日本最初の国有鉄道(京浜鉄道)の発祥地である新橋汐留(しおどめ)駅において開業式が挙行されたのは明治五年十月。たいへんな見物人で、なかには《陸蒸気》に暗箱(組立式写真機)を向けているものもいる。明治天皇のお伴で参議陸軍元帥の西郷隆盛、大蔵大輔(だいゆう)の井上馨、大蔵三等出仕の渋沢栄一ほか美人の女官らも列席、軍楽隊が賑々しく和洋合奏をおこなった。
 金モールや提灯で飾られた、この真新しい汐留駅舎を建てさせてもらったのは、三十六歳の大倉喜八郎である。彼はこれから発車する《陸蒸気》の乗客となり、横浜港へむかうことにしていた。欧米旅行へ出発するのだがその目的については後述するとして、じつは彼も越後人なのである。新発田(しばた)の出身、天保八年(一八三七)の生まれ。
 煉瓦路といわれる銀座通りが日本一のショッピング街へと発展してゆく、そのきっかけをつくったのも彼である。ときは明治十五年。銀座二丁目にある彼の大倉組商会本社の二階に、アメリカ直輸入の発電機を据えつけ、夜になると歩道の上に出した二千燭光のアーク(白熱)灯に点灯させた。一帯が真昼の明るさになったものだから通行人はびっくり仰天。これが銀座新名物の一つにもなって、夜な夜な苦学生たちが集まってきてその下で、読書したりノートをつけたりしたという。
 これは喜八郎が渋沢栄一らと東京電燈会社設立を出願、大倉組商会内にその設立事務所を同居させた……アーク灯で話題づくりするのはそのためのPRであり、
「このように電気万能の時代を到来させて、はやく東京を明るく発展させましょう」
 と官庁に対して設立許可を催促しているのでもあった。

……「大倉喜八郎」冒頭より

購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***