「海南小記」

柳田国男著

ドットブック版 296KB/テキストファイル 173KB

400円

著者は大正九年、九州東海岸から沖縄の島々の果てまで足をのばし、そこに行なわれる数多くの民俗を比較対照してみる機会を得た。「本書のごときは、いたって小さな咏嘆の記録にすぎない。もしその中に少しの学問があるとすれば、それは幸いにして世を同じうする島々の篤学者の、暗示と感化とに出(い)でたものばかりである」…著者はこう謙虚に述べると同時に、日本の民俗学の開眼を高らかにうたいあげた。『雪国の春』とならぶ柳田国男の生涯をかけた学問の出発点。

柳田国男(やなぎたくにお)(1875〜1962)現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれ。日本における民俗学の開拓者。東京帝大卒業後、農商務省にはいり、仕事の関係で各地を旅行、同時に早稲田大学で農政学を講義する。山地の民俗に興味をいだき『遠野物語』を著わすが、以降は幅広く各地の民俗を研究・調査、「方言」「昔話」「伝説」「童謡」などをテーマにした多くの著作を著わした。

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  尋常五学年の小学読本の中に、

  甘藷ノ名ハ地方ニヨリテ異ナリ。関東ニテハ薩摩(サツマ)芋トイヒ、薩摩ニテハ琉球芋トイヒ、琉球ニテハ唐芋トイフ。名称ノカク異ルヲ以テモ、此芋ノ次第ニ西方ヨリ伝来セシコトヲ知ルベシ。

 とあるのは、ほんの少しばかりだが間違っている。琉球では甘藷を唐(から)芋という者はなく、一般にこれをンムと呼んでいる。ンムは、すなわちわれわれのイモと同じ語である。カライモまたはトウイモという名は、広く南九州一帯に行なわれている。したがって薩摩でもこれを琉球芋と呼ぶことはない。琉球芋といったのは九州の北の一角から中国地方・上方(かみがた)にわたる大区域であったが、後ようやく標準語のサツマイモに改まっていこうとしているのである。

  この類の誤りは、子供たちにもよくわかることだから、単にその地方だけのためにならば、これを訂正する必要はないかも知れぬ。ただ気になるのは、これでもって、甘藷は南方よりといわずに、西方より伝来したとする推理法である。何となれば薩摩も琉球も、日本の南部である上に、甘藷はさらにその南方の、南支那から輸入してきたことが確かだからである。

  以前奥州などの田舎の料理には、いわゆる薩摩芋は椎茸(しいたけ)や蓮根(れんこん)と、同等以上の待遇を受けたものだ。それが運送が手軽になったばかりか、気仙(けせん)あたりの島や半島にまで、とうとうこれを栽培するようになった結果、だいぶ近ごろは平凡化しようとしている。これに反して関東の大都会には、八里半(はちりはん)の名声遠くとどろき、青木昆陽(こんよう)の墓の前に、焼芋屋の組合が感謝の祭りをいとなむような時代が来た。遠州御前崎(おまえざき)附近はまた事情が別で、薯種(いもだね)を輸入した大沢権右衛門の記念碑は、薯(いも)きりぼし生産業者などが、主としてその建設のために奔走(ほんそう)したようである。同じ薩摩芋地帯のわずか数十年の歴史にも、よく見るとこれだけの変化がある。いわんや当初この物を沖縄にもたらした野国総管、それをヤマトに招き入れた薩州児水(ちごがみず)の継川利右衞門、これを中国地方へ伝えた石見(いわみ)の薯(いも)代官井戸平左衛門などの、二百年前の心持では、果して今現に生じている社会上の効果の、どれだけの部分までを予期していたものであったか。とうていわれわれ「おさつ」階級に属する者の、完全に理解しうるところではないように思われる。

  自分は考える。少くともこれだけは意外の効果ではなかったかと。『甘薯考』〔青木昆陽の著書〕その他の宣伝書を見ると、主として不作の年の百姓飯米(はんまい)を補い、あるいは島の流人(るにん)などが飢えを救うのをもって、藷(いも)の恩沢(おんたく)の至極と認めていたようである。それが今日では、ずいぶん宏大な地域にわたって、凶年でもない年に流人でもない人々が、必ず作り必ず食う農作物とはなっているのである。かくのごとき生活上の変化は、まさしく大事業である。しかも二百何十年の歳月より他に、誰が企ててこれをなしとげたと、いう人も別になかったのである。

  カライモ地帯を旅行してみると、また新たに国の運命というようなものを考えさせられる。海近く日の暖かい唐藷畠の一部分は、かつては疑いもなく浦人(うらびと)の粟生豆生(あわふまめふ)〔粟畑豆畑〕であった。こんな雑穀類の調製がめんどうで、一人を養うための面積が多く入用なものより、甘いだけでも唐藷の方が好ましい。その上に世話も入費も概して少なく、凶作の患いもずっと減じうる。沖へ出て行く舟の弁当には、片手で食えるから便利だといった婦人もある。こういう考えがもとになって、日本人なれども長年の箸と茶碗に分かれ、薯の食事を常とするようになったのである。しかも、いわゆる港田の遠く拓(ひら)かれ、清水豊かにこれをそそぐような浜方において、必ずしも急にこの薯作りの生活に移らなかったのは、何といっても米にまさる食物はないからである。水にとぼしい岬や島の蔭で、以前はたぶんに人を住ましむる望みもなかった畠場が、この唐芋の輸入によって、初めてある意味における安楽郷となり、またたくうちに今日のごとき人口密集をみるにいたったのである。甘藷先生とその先進とがもし出なかったら、これらの海岸の岡は今なお萱(かや)だち雑木だちのままで、しかもわれわれは、つとに国内にあふれていたであろう。もちろん大いに苦悶しつつも、すでによほどの人数を他国に出しており、このいわゆる民族主義の時世に出くわして、今さら移民問題に行きづまるようなこともなかったであろう。実際この小さな島国の山国に、五千九百万人を盛りえたのは、一半(いっぱん)はすなわちカライモの奇蹟である。あるいは激語してカライモの災いと言った人さえもあるのである。

……「一 からいも地帯」冒頭


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