「カーマ・スートラ」

バートン版・大場正史訳

エキスパンドブック 1019KB/ドットブック版 179KB/テキストファイル 110KB

600円

ヒンズー的伝統に支えられたインドの「愛の教典」。性の知識は幸せな人生を送るに当たって必要不可欠と考えた「人間行動の教科書」。エキスパンドブック版にはフランス語版からのエキゾチックな挿し絵入り。

ヴァーツヤーヤナ
1〜3世紀に生きたインドの聖者といわれるが、それ以上の詳しいことはわかっていない。『カーマ・スートラ』は『愛経』とも呼ばれ、正義(法)と財物(経済)とならんでカーマ(性愛)の重要性を説いた著作として、あまりにも有名である。

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  ここで、つぎのような疑問を発する人もあるだろう。男も女も同種の存在であり、同じ結果をもたらすことに専念するとすれば、なぜちがった行為をしなくてはならないのかと。
  ヴァーツヤーヤナはそのとおりだと言っているが、それは喜びの意義だけでなく行為の方法も男と女ではちがうからだという。この行為のしかたのちがいは、たとえば男性は能動者で、女性は受動者であるということは、男女の本質によるわけである。でなければ能動者が時にはされる側に、また、その反対になるはずである。そして、行為の方法のちがいから喜びの意識のちがいが生じる。なぜなら、男は「この女はわたしと結ばれた」と思い、女は「わたしはこの男と結ばれた」と考えるからである。
  もし男女の行為の方法がちがうとしたら、その結果であるところの、男女の感じる喜びにも相違があって当然だと言えるかもしれない。しかし、この反対意見には根拠がない。なぜなら行為する男性とされる女性はちがった種類だから、行為の方法にちがいがあるのは当然である。けれども、彼らの感じる喜びにまで相違があろうはずはない。というのは、当然両者ともにそれぞれ行なう行為から喜びを引き出しているからである。
  この問題については、さらに、ふたりの異なった人間が同じ行為をすれば、同じ目的が達成されるはずだが、これに反して男と女の場合は、それぞれが別々に自分の目的を達成するから、その議論は矛盾している、という意見が出るかもしれない。しかし、この考え方は誤っている。なぜなら、時にはふたつのことが同時に行なわれるからである。たとえば、闘羊の場合のように、いずれの雄羊も同時にそれぞれの頭にショックをうけるのである。もっと例を引けば、二個のリンゴをぶっつけた場合も、あるいはふたりのレスラーの格闘もそうである。それらの場合には、同じ種類のものが用いられているではないかという反論があれば、こう答えよう、男女の場合でも、ふたりの人間の性質は同じであると。そして、行為の方法のちがいは男女の性質のちがいからのみ生じるのだから、当然男も女と同じ快楽を体験するわけである。
 この問題に関してもつぎのような諺がある。
 「男と女は同じ性質だから、同じ快楽を感じる。従って、男はいつまでも自分を愛するような女と結婚すべきである」

……《性的結合について》より


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