シリーズ「鎮魂の戦史」

「神風特別攻撃隊」

猪口力平・中島正著

ドットブック版 961KB/テキスト版 164KB

700円

ミッドウェー海戦で4隻の空母を失い、じり貧となった日本艦隊機動部隊は、決死のマリアナ沖海戦で壊滅的打撃をうけて、実質的に「機動力」を完全に失った。太平洋戦域は徐々に後退し、フィリピンが南方の石油供給確保のための最後の砦となった。制空権を完全に奪われ、残存航空機も少なくなった日本軍には、米空母を主目標にした航空機による「体当たり攻撃」という選択肢しか残されていなかった。こうして結成されたのが「神風(しんぷう)隊」、すなわち神風特別攻撃隊であった。本書はこの作戦に最初からかかわり、多くの若者を「雲流るる果て」に送り出した指導者2人がつぶさに語る痛哭と鎮魂の戦記であり、各国語に翻訳されて大きな反響をよんだ。

猪口力平 いのぐちりきへい(1903〜83)鳥取市生まれ。1936年(昭和11)海軍大学卒業。44年(同19)153空司令をへて第一航空艦隊参謀となり、比島・台湾方面作戦に参加。大西瀧治郎中将の神風特別攻撃隊の編成に立ち会う。「神風特別攻撃隊」の命名者でもあった。海軍大佐。兄猪口敏平は戦艦「武蔵」艦長として「武蔵」とともに比島シブヤン海に没した。

中島正 なかじまただし(1911〜2006)
福岡県生まれ。1931年(昭和6年)海軍兵学校卒業。42年(同17)台南空飛行隊長、43年(同18)横須賀海軍航空隊飛行長をへて、44年201空飛行長。海軍中佐。
立ち読みフロア
比島に追いつめられて

[マニラ湾の夕日]
 マニラ湾の防波堤の岸壁に立つと湾をへだてて、はるか水平線にキャビテの無線電柱や煙突の立っているのが見える。その北につづいて、湾のまんなかにコレヒドール島がポカッと浮かんでおり、さらにひとすじの水をへだてて北に相対しているのが、バターン半島の南端にそびえるナリベレス山。その手前、市心からまっすぐ南の海岸にむかったところに、マニラホテルが幾階層の高さで四角にそびえ、この街に近代的な感じを与えている。その近くのレガスピー桟橋のたもとにある比較的大きな建物は、もとアメリカ軍のネービー・アンド・アーミークラブで、いまは日本の南西方面艦隊の司令部である。この司令部のまえの港には、日本の巡洋艦や駆逐艦が数隻と一二、三隻の輸送船が錨(いかり)をおろしていた。
 昭和一九年一〇月のなかば――。
 私(猪口)は第一航空艦隊参謀として、マニラの東郊にあるニコルス飛行場にほど近い、二階建ての家屋の司令部で勤務していた。
 この建物は、この付近ではちょっと目立つほど小ぎれいで、書斎にのこされていた相当多くの蔵書からみて、持ち主は有産知識階級の人であろうと想像された。西隣りには、もとハイアライ〔球技の一種〕が催されたような建物や、急造された平家がつづき、兵員の宿舎や電信室になっていた。そして司令部のまえの鋪装道路のむかいはすぐ海で、防波堤が道路とともにつづいている。
 西の空が赤く、あるいは薄紫に、ときには薄墨を刷(は)いたように色どられ、夕日が沈みはじめると、周囲の山々や島や建物や、それに艦艇までが、すそからしだいに黒ずんでいく。夕日がナリベレス山の中腹に落ちるころは、端麗(たんれい)な山の姿がいっそうくっきりしてきて、世に「マニラ湾口の夕景」とたたえられているのも、さすがとうなずかれる。このあたりに起きた出来事は、千古のむかしからなんでも知っているかのようにとりすました山のたたずまいが、とくに印象的であった。
 かのアメリカのデュイー提督が、「機雷がなんだ」とさけんでこの湾口を突破し、マニラ攻撃の突撃路をひらき、ながくアメリカ海軍に勇断決行の伝統をのこした米西戦争、そして太平洋戦争の初頭、日本海軍の空襲にはじまり、バターン半島の掃蕩戦(そうとうせん)、それにつづくコレヒドール攻防の苦闘戦など、あるときはスペインの軍艦が、あるときはアメリカの軍艦が、そしていまや日本の軍艦が、わがもの顔に出入りするマニラ湾――そこから日本軍の攻撃をすぐには防ぐ方法なしと、一艇に身を託して豪州へ逃げたマッカーサーの早期脱出行などを、おそらく微苦笑して見ていたであろうナリベレス山――しかしそのマッカーサーは、反攻に転じて以来着々とその歩を進め、東京への道を一路北上し、すでにいまではハルマヘラの線に達し、まさに比島《フィリピン群島》をうかがおうとしている。はたしてナリベレス山はなにを予感し、なにを予見しているであろうか?
 しかし戦局は、そのような感傷にふけるにはあまりにも深刻化していた。第一に、わが一航艦(第一航空艦隊)の戦闘能力はどうであろうか? 比島の戦闘態勢はどうであろうか? 自信をもちうるものはなにひとつとしてない。それでは、後方の大本営の成算はどうであろうか? すでに配布された「捷号(しょうごう)」作戦計画 (後述)をみれば、いたずらに「天祐(てんゆう)」とか「必勝の信念」とかいうような字句ばかり多く、かえって具体的成算のないことを推察させ、国家の前途はまことに不安で焦燥にかられるばかりであった。とはいうものの、こうした時期に直面した日本軍として、わが一航艦はなにをなすべきか? いまとなっては、不安焦燥の雑念をふりすてて、現実に所有するものを最高度に活用するよりほかに策のあろうはずはない。われわれは命のあるかぎりただ戦うのみである。たとえその力はどんなに小さくとも……。沈みゆく夕日を受けながら、私はいつしか、サイパン失陥以後、急速に悪化していった戦局の推移をかえりみるのであった。

[守勢から劣勢へ]
 開戦のころは、全戦域にその優勢をほこっていたわが海軍航空部隊も、零(ゼロ)戦がアメリカ海軍の戦闘機F6F、F4U、P38などにかなわなくなってからというもの、搭乗員や、機材の絶対量の不足とあいまって、急速に苦戦をかさねるようになっていた。しかも、零戦にかわるべき新鋭機の出現がおくれたばかりでなく、その零戦そのものすら作戦部隊の要求の半分もみたすことができないでいた。ソロモン群島からしだいに後退し、ギルバート、マーシャル両群島をうしなうと、ついにラバウルにあったわが海軍航空部隊は撤退せざるをえなくなっていた。昭和一九年二月下旬である。
 そして、三月。わが海軍はぜったいにゆずれない「死守決戦線」を、小笠原群島、マリアナ群島、西カロリン諸島、西部ニューギニアをむすぶ線にひいて、ここからは一歩もしりぞくまいという決意を示した。マリアナ群島がおちれば、そこからひと飛びで日本本土爆撃が可能になる。すでに中国の基地から九州方面をおびやかしているB29の行動圏内にはいるのだ。
 六月中旬。日本は「あ号」作戦によって死守決戦線を守る一大決戦をマリアナ群島周辺にくりひろげた。しかし、その結果は、すべての海軍将兵が想像だにしなかったほどの惨敗に終った。おしまくる敵を迎えうつ作戦だったから、ちょうどあのミッドウェー海戦の逆をゆけたであろう地の利も、まったくこれを利用することができなかった。しかも、この一大敗戦のほとんどすべての原因は、わが海軍航空部隊にあった。質、量ともにあきらかに劣勢であったためといわなければならない。基地航空部隊である角田覚治(かくたかくじ)中将の第一航空艦隊も、母艦航空部隊を主とする小沢治三郎(おざわじさぶろう)中将のひきいる第一機動部隊も、アメリカ軍にたいしてみるべき戦果をあげることなく敗れ去った。連合艦隊司令長官豊田副武(とよだそえむ)大将の発した「皇国の興廃この一戦に在(あ)り……」の訓示にこたえうる部隊は、残念ながらひとつもなかった。

……冒頭より


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