[敬天愛人]西郷隆盛

(全4巻)

海音寺潮五郎

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各800円

 

(1)「西郷隆盛ほど後にその人間性が歪められ、人々に間違って伝えられた英雄はいない。ぼくは、彼に対する世の誤解を解きたいと思う」西郷と同郷の出身であり、彼の真実の姿を世に知らしめることをライフワークとした歴史小説界の巨人・海音寺潮五郎。絶筆となった未刊の大作「西郷隆盛」を除けば、本書は、海音寺が実際に過去の数多くの歴史資料をあたり、その清廉誠実な生涯を描きだした出色の西郷伝である。本巻は吉之助の誕生から始まり、黒船来航、安政の大獄、寺田屋事変まで、激動の渦中にあくまでも自己を貫いて生きる西郷を追う。
(2)幕府は土台から腐りきっている。並み居る列強の脅威に対抗して日本を守るには、雄藩が手を結び国の舵取りをするしかない……。西郷は勝海舟や坂本龍馬らと交流しつつ、その実現に奔走する。武力を後ろ盾に開国を迫る外国艦隊の前に、国内は混乱を極めていた。歴史小説界の巨人・海音寺潮五郎が、真の西郷像を世に伝えるべく書き下ろした渾身の西郷伝第二巻。
(3)紆余曲折の末、西郷らの努力は実り、薩長連合が成立。雄藩の討幕の気運は日増しに盛り上がっていった。徳川慶喜が大政奉還の決意を固める一方で、朝廷からは討幕の密勅が降りる。やがて武力による革命の戦いの火蓋が切られ、鳥羽・伏見の戦いにおける官軍の勝利を経て、維新政府の産声が上がった……。歴史小説界の巨人・海音寺潮五郎が描く維新最大の英雄伝、いよいよ佳境に!
(4)鳥羽・伏見の戦いに勝利した今、西郷に課された使命は、官軍・幕軍それぞれの混乱を平和裏に収め、日本を一刻も早く建て直すことであった。勝海舟と協議し江戸城を無血開城に導くなど、西郷が世の平定に奔走する一方、彰義隊戦争を経て、時代は江戸から明治へ刻々と移ってゆく…。維新最大の英雄伝、堂々の完結編。巻末に、著者・海音寺潮五郎が西郷への熱い想いを存分に語る「付記・敬天愛人」を収めた。

海音寺潮五郎(1901〜77)鹿児島県伊佐郡大口村(現在の伊佐市)生まれ。本名は末富東作(すえとみとうさく)。国学院大学高等師範部国漢科を卒業後、中学教師を務めながら、創作をおこなう。1934年から歴史小説を発表しはじめ、36年「天正女合戦」と「武道伝来記」が認められて第3回直木賞を受賞。以後、歴史小説・史伝ものの第一人者となった。前者の代表作は「平将門」「海と風と虹と」「蒙古来たる」など、後者では「武将列伝」「悪人列伝」「西郷隆盛」(絶筆・未完)など。

立ち読みフロア
 ちょうどこの頃、日下部伊三次(くさかべいさじ)が江戸から上って来ていた。日下部はもと水戸につかえていたので、水戸藩士らに親しい人が多い。井伊が水戸老公をはじめ、尾張慶勝(よしかつ)、越前慶永(えちぜんよしなが)らに厳重な処分をし、その政治活動をすっかり封じ去ったのを憤激して、水戸の有志らにむかって、こう相談を持ちかけた。
「拙者は三条前内府公をよく存じ上げています。三条公は慷慨(こうがい)の志のあられる忠直なお人がらで、至尊(しそん)のご信任も厚いお方です。三条家は井伊家と姻戚(いんせき)のご関係がありますが、前内府のお人がらから推察しますと、定めて大老のなすところに憤っておいでであると存じます。どうでござろう、京に行って、三条公によって朝廷に運動して、井伊を罷免(ひめん)し、老公や尾州(びしゅう)侯や越前侯の処分を解除せよとの勅諚(ちょくじょう)を下(くだ)していただくことは、必ず成功することと、拙者は信じています」
 水戸の有志らにしてみれば、渡りに船の提案である。
「やって下さるか。ぜひ頼みます」
 となって、日下部は中山道(なかせんどう)をとって上京して来た。それは斉彬(なりあきら)の死去の報がまだ達せず、西郷らが鍵直(かぎなお)で着々と運動を進めている頃であった。
 日下部は薩摩藩士であるから、着京するとすぐ薩摩屋敷に顔を出したが、出してみると、斉彬が近く大兵をひきいて、大決心をもって上京して来ることがわかった。日下部はよろこんだ。
「そういうことならば、天下のことはもはや成ったと同じです。拙者の運動はやめて、太守様のご着京をお待ちしましょう」
 と、西郷らに合流して、運動をつづけていた。
 そこに、七月二十四日、斉彬の悲報が到着した。
 日下部は失望したが、本来の望みに立ちかえって、梁川星巌、頼三樹三郎、梅田雲浜(うんぴん)、池内大学等の浪人学者らと共に、運動をはじめた。
 人々は水戸に勅諚を下してもらい、その勅諚をもって、井伊のなした処分を自然解消させようという計画を立てた。
 猛運動がはじまった。日下部は以前から三条家とは知合だから上京するとすぐ出入りしている。薩藩士だから近衛家にも出入りしている。知己をたどって青蓮院宮にも拝謁(はいえつ)して、運動する。当時の水戸の京都藩邸の留守居役は鵜飼(うがい)吉左衛門であったが、これとも、その子の幸吉とも、往来して手をつないで運動する。日下部の運動とともに、浪人学者らもそれぞれの手蔓(てづる)をたどって朝廷に働きかけた。
 運動は成功した。それは根本的には、至尊をはじめ公家達が一通りならず幕府にたいして憤激していたからである。朝廷では、三家か大老が上京して説明せよと沙汰してやったのに、幕府は、「水戸と尾張は不都合があって将軍の意にかないませんから、隠居蟄居(ちっきょ)を命じました。大老は政務多端で上京出来ません。そのうち間部(まなべ)老中を上京させましょう」
 と、木で鼻をくくるような返事をよこしたのだ。
 また、米国との条約調印にたいしては、天皇は反対の旨を仰せ出されたのに、これと調印したばかりか、引きつづきオランダ、ロシヤ、英国とも調印し、近いうちにはフランスとも調印しますと上奏して来たのだ。違勅したばかりか、天皇の意志をさんざんに踏みにじったのだ。
 天皇はお怒りのあまり、ついに、
「まろは退位する」
 と、仰せ出された。一時のお怒りに駆られてのおことばではない。度々仰せ出されている。よほどにご決心が堅いのである。
 天皇がこうであられる以上、公家達の多くが、憤りを同じくすることは当然である。もちろん、中には井伊の処置に同意な公家もあった。その代表者は公家の最高位にある九条関白であったが、こう朝廷全体が硬化して来ては、関白の権威でもどうにも出来ない。朝廷はアンチ井伊の空気に支配されていた。こんな風であったから、日下部らの運動も成功したのである。
 七月末になると、勅書の草案も大体出来て、不日(ふじつ)に鵜飼吉左衛門に勅書をお下げわたしになることになった。
 西郷は、月照の忠告によって帰国して殉死することを思いとどまり、報国の機会を待っていたが、このことを月照から聞いて、
(待てよ)
 と、考えた。
 彼は水戸藩のことをよく知っている。水戸は天下の輿望(よぼう)のあつまっている藩ではあるが、内実は藩の意見が二つにわれて、世間の考えているほど強力な働きの出来るところではない。とりわけ、こんどの幕府の処分によって、老公反対派はうんと頭をもち上げているはずである。老公派は心こそやたけにはやっていようが、頭首を失って実力はなくなっているはずであると判断した。
(もし、せっかく勅書をご下付になっても、お受けすることが出来ないようなことがあっては、朝廷のお名をおとし、水戸藩も立つ瀬があるまい)
 と、思案した。
 そこで、月照を訪問した。
「この前伺いました、水戸家へご下賜(かし)のご勅書のことでごわすが、くわしい話をお聞かせ願えんでしょうか」
「それでは、陽明家(近衛家)に行きまほ。陽明家にはくわしいことがわかっているはずどす」
 近衛家に行って、老女の村岡を通じて、忠煕(ただひろ)から話してもらい、勅書草案の写しも見せてもらった。
 この勅書は、幕府の外交問題処理にたいする天皇の不満、幕府が天皇の意志を蹂躙(じゅうりん)したばかりでなく、事後いささかも礼節をつくさなかったことにたいする天皇のお怒り、それらにたいする心ある国民の怒りと抵抗、その抵抗にたいして井伊の敢てとった処置――安政大獄がいかに不条理なものであったかを語るものであり、安政大獄が谷川の流れの中の巨巌のように維新運動を激化させて、これまでの単なる日本強化運動から倒幕という革命運動になった理由を、最もよく説明するものであるから、少々綿密に現代語訳してみよう。
「先般、幕府は、アメリカとの条約調印は余儀ない次第であったから、その説明のために間部詮勝(まなべあきかつ)老中を上京させると言上して来た。
 一体、前に堀田正睦(ほったまさよし)老中が条約調印の件について伺いのために上京して来た時、諸大名の意見を聞きたい故、それを取りまとめて奏上するようにと勅諚あったのに、それはせず、大老は無断調印の処置をとっている。それでは単なる無断調印ではなく、違勅ということになる。これほどの国の大事に、このような軽率なはからいをするとは、料簡(りょうけん)のほどがわからない。将軍は賢明な人であるのだから、役人共の処置がよくないと言わざるを得ない。こんな風では、外患どころか、国内のおさまりもどうかと、陛下は深くご憂慮でありますぞ。
 国難来るの感最も痛切な時であるので、陛下は朝廷も幕府も心から打ちとけて合体し、日本の永久安全の道を講じたいと、一筋に思召(おぼしめ)された故、三家か大老に上京させよとご沙汰あったのに、幕府は水戸・尾張は謹慎中(きんしんちゅう)であると言上して来た。どんな罪過があって両家が謹慎を命ぜられたのか知らないが、両家は徳川本家の羽翼(うよく)としてただならない家である。今日のように外国船がどしどし入って来るという非常時に、そんなことでは、天下の人心も動揺するであろうと、陛下のご憂心は一方でない。
 前の勅諚で、三家以下諸大名の意見を聞きたいと仰せ出されたのは、日本の永久の安全と、公武(朝幕)合体とをはかり、叡慮(えいりょ)を安んぜんとなされたためで、単に外交問題のためではないのに、このような内憂があっては、陛下のご心配は一通りではない。
 これは日本の一大事である故、大老、閣老、その他三家、両卿、家門、外様(とざま)、譜代(ふだい)の諸大名、全部集まり、真心を打開けて相談し、国内の平和と朝廷と幕府との親和とがいよいよ長久なように、皆で徳川家を扶助し、天下の人心を一致させ、外侮(がいぶ)をふせぐようにとの勅諚(ちょくじょう)、以上の通りである」
 以上が本文の大意で、別紙がついている。
「この勅諚は、もちろん国家の大事のために下賜されるのであるが、徳川家のためを思召されての仰せ出されでもある故、会議をひらいて徳川家の安全の道を講ずるようにと、特におことばを添えられ、勅諚の趣旨を諸大名にも通達し、とくに三家、両卿、家門以上には隠居に至るまで達するようにと仰せ出されている」
 連署は、左大臣近衛忠煕(ただひろ)、右大臣鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)、内大臣一条忠香(いちじょうただか)、前内大臣三条実萬(さねつむ)、大納言二条斉敬(なりゆき)、同近衛忠房の六人で、九条関白は除外されている。これは親井伊派であるためである。
 一見したところ、勅諚本文にも、別紙にも、天皇の徳川家にたいするご遠慮あるいはご愛情があふれている。これが井伊大老を最も刺戟し、最も苛烈(かれつ)な弾圧と検挙とをおこす動機になったことは不思議なようであるが、よく読むと、この勅諚は、井伊が水戸、尾張、一橋、越前家にたいして行った処罰をまるで認めていない。「どんな罪過があって処分されたか知らないが」などと仰せられているのである。井伊にたいする最も痛烈な不信任状といってよい。井伊が激怒し、この密勅降下に働いた連中を大検挙する気になったのは、そのためである。
 西郷は勅諚の内容を拝見すると、月照に、自分の見る水戸藩の内情を語って、
「せっかくこんなありがたい勅諚が下りましても、水戸家がお受けせず、あるいはお受けはしても奉ずることが出来ないようなことがありましては、朝廷のご威光を損じ奉る結果となり、何とも恐れ多いことです。前もって拙者が江戸に下り、水戸家の意向を瀬ぶみしたいと存じますが、いかがでごわしょうか。このことはよほど慎重に遊ばしませんと、影響するところが大きいと思うのでごわす」
 と言った。
 水戸藩の内情を知っているだけに、西郷はよほどの不安を感じたのだ。この西郷のカンは的中した。安政大獄がおこり、それが最も苛辣峻烈(からつしゅんれつ)なものとなったのは、この密勅降下が動機となったのであり、またこの大獄が一波万波を呼んで、日本は狂瀾怒濤(きょうらんどとう)、血で血を洗う惨烈な時代に入って行ったのである。

……「大獄はじまる」の冒頭より


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