「決闘者 宮本武蔵」(1・2・3)

柴田錬三郎作

(1)ドットブック版 510KB/テキストファイル 210KB
(2)ドットブック版 482KB/テキストファイル 219KB
(3)ドットブック版 530KB/テキストファイル 229KB

各800円

三歳にして眼前で両親を殺された幼き武蔵。三尺の小さな躰に、憎しみと怒りがみなぎる。敵を討つためには、強くならねば…。幼少にしてすでに兵法者の資質を持った彼は、想像を絶する修業に挑む。仇敵を倒し、新当流の使い手有馬喜兵衛と対侍して斬ってとる。この時わずか十三歳であった。果てることなき決闘者としての修業が続く…(1)。
武蔵を討ち取るべく、吉岡一門は総がかりであった。一乗寺村下り松で、迎える吉岡方は七十余人。武蔵には、百にひとつも生き残る道はない。疾風の如き敏捷さで、敵線を突破するだけだ。一方、魔神の燕斬りを会得した佐々木小次郎は…(2)。
江戸には、十指にあまる剣豪が道場を構えていた。これらの一流の強者に挑戦するのが、武蔵の宿命であった。けれども、その前に宍戸梅軒を斬らねば。但馬守宗矩の柳生流を破り、佐々木小次郎と雌雄を決せねば。武蔵の血汐は湧きたつ。小次郎を余人の手で斬らせはしない。仕留めるのはこのおれだ。そして迎えた船島の朝…(3)。
柴田錬三郎の描いた「決闘する男」としての武蔵!

柴田錬三郎(1917〜78)岡山県生まれ。慶大支那文学科卒。在学中から「三田文学」に作品を発表しはじめ、「イエスの裔」で直木賞受賞。「眠狂四郎無頼控」で一躍、時代小説の第一人者、人気作家となった。代表作には「剣は知っていた」「赤い影法師」「柴錬立川文庫」の連作などがある。

立ち読みフロア
 一

 ――来たか、武蔵!
 佐々木小次郎は、潮流にさからい乍(なが)ら、ゆっくりと近づいて来る小舟を、見まもって、口辺に薄く笑みを刷(は)いた。一刻(いっとき)以上もまたされた苛立(いらだ)ちと憤(いきどお)りをふり払うために――心気を、常の状態にとりもどすために、小次郎は、まず、こちらをわざと待たせた武蔵の見えすいたやりかたを、冷笑したのである。
 後方の幔幕(まんまく)の前に居並んだ検分役の長岡興長以下、随従の家臣、足軽一同は、ひそとして、木像か石仏のように、沈黙を守ったなりであった。あらかじめ、興長から、いかなる場合も、平静を保ち、絶対にさわいでは相成らぬ、とかたくいましめられていたに相違ない。
 小次郎は、口辺に冷笑を湛(たた)えつつ、
 ――この巌流(がんりゅう)佐々木小次郎は、吉岡清十郎や伝七郎とは、ちがうぞ。
 と武蔵に対して、というよりも、おのれ自身に対して、云いきかせた。
 近づいて来る小舟の舳先(みよし)には、編み笠をかぶった姿があった。潮の流れにさからって、乗りきって来るため、ひどくしぶきをあびるので、漁師がつける鯨皮の筒袖(つつそで)らしいものを、はおって、うずくまっていた。
 小次郎の双眸(そうぼう)は、ふと、その背中をまるめ、編み笠を傾けて、顔をかくした姿が、なにやら、惨(みじ)めなものに映った。
 ――おれに斬(き)られるために、武蔵はやって来た!
 そんな気がした。
 小次郎は、その小舟を沖に発見してから、再び床几(しょうぎ)に腰をおろしていた。
 小舟は、小次郎に向かってまっすぐには、進んで来なかった。
 船島唯一(ゆいいつ)の砂地のあるこの浜辺は、遠浅であった。
 小次郎が床几を据(す)えた渚(なぎさ)にまっすぐに進んで来れば、かなりの距離を置いて、舟底が岩へ突き当るか、砂を噛(か)むことは、事実だった。
 漕(こ)ぎ手は、それを知っているかのように、舳先を転じて、東へ向けた。
「水に濡(ぬ)れるのを厭(いと)うのか、武蔵ほどの者が――」
 小次郎は、冷笑した。
 小次郎自身、いま床几を据えている渚へ、まっすぐ舟を寄せて来て、途中から水中へ降りると、膝(ひざ)までつかり乍ら、ざぶざぶと波をはねて、砂地へあがって来たのであった。
 長岡興長の検分の場所が、そこに設けられていたからである。
 検分の場所の前が、当然試合場となるのであった。
 小次郎、そして細川家の人々が見まもる中で、小舟は、潮に流されるように、島の先端へ着いた。
 そこは、波打際(なみうちぎわ)まで、嫩松(わかまつ)や灌木(かんぼく)や歯朶(しだ)類が密生していた。
 小次郎は、舳先から渚へ降り立った対手(あいて)が、編笠もとらず、嫩松の枝を押しのけたり、灌木を踏みしだき乍ら、こちらへ歩いて来るのを眺(なが)めやった。
 砂浜といっても、岩が砕けたような尖(とが)った石塊(いしくれ)がいちめんにちらばって居り、きわめて足場は悪かった。
 距離が、二十歩あまりに縮まった時、小次郎は、床几から立ち、それを波へ蹴倒(けたお)しておいて、物干竿(ものほしざお)を抜きはなつや、その鞘(さや)もまた、投げ棄(す)てた。
「武蔵っ!」
 編み笠に顔が、かくれて、頤(おとがい)だけしか見えぬ対手に向って、小次郎は、叫んだ。
「わざと約束の刻限をおくらせて、敵の心気を擾(みだ)そうとする小ざかしい策は、余人は知らず、この佐々木小次郎には、通用せぬぞ!」
「…………」
「武蔵! おくれた理由が、他にあるとでも申すか。……これは、双方勝手な野試合ではないぞ。いやしくも、細川侯のおん名に於(お)いて行われる試合ぞ。笠をかぶったままの非礼、許せぬ。もはや、尋常の試合ではない。細川家兵法師範・巌流佐々木小次郎が、牢人宮本武蔵を無礼討ちにいたす、受けとれい!」
 そう云(い)いはなった時、対手は、ものしずかに、頤でむすんだ紐(ひも)を解き、編笠を頭から、はずした。
「お!」
 小次郎は、現れた顔が、武蔵ではなく、まだ二十歳あまりの凛々(りり)しい、気品のある別人のものであるのをみとめて、かっと、双眼をひき剥(む)いた。
 流石(さすが)の小次郎も、この瞬間、脳天へ血汐(ちしお)が渦巻(うずま)き立つほどの激怒にかられた。
「おのれ、替玉かっ!」
 呶号(どごう)した刹那(せつな)――それを待っていたように、背後から、声がかかった。
「宮本武蔵は、ここに罷(まか)り居り申す」
「な、なにっ!」
 ぱっと向きなおった小次郎と、十数歩へだてた砂地上に忽然(こつぜん)と、武蔵の姿があった。
 旅塵(りょじん)によごれて模様も消えた小袖をつけ、革袴(かわばかま)をはき、渋柿(しぶがき)色染めの手拭(てぬぐ)いで総髪に鉢巻(はちまき)をし、そして、右手に、櫂(かい)を削った四尺一寸八分の木太刀を携げて――。

 二

「うぬ、計ったな!」
 小次郎は、叫んだ。
 武蔵は、無表情で、こたえた。
「それがしは、昨夜おそく、この船島に渡り着き、あの小丘の松林の中で、睡(ねむ)って居り申した。……その編笠をかぶった若者を、この武蔵と信じ込んだのは、お手前自身の不覚。その不覚を、計られたとするのは、お手前の勝手でござろう」
 流石の小次郎も、武蔵が昨夜のうちに、この船島に到着していたとは、夢想だにしなかったことである。
 ――おちつけ、巌流!
 小次郎は、おのれを叱咤(しった)した。
 しかし、その叱咤は、もはや手おくれであった。
 見事に、武蔵の策略に乗せられたのである。
 激怒の情を、瞬時にしてしずめるのは、不可能であった。
 ただの決闘ならば、
「後日!」
 と、叫んで、立ち去る方法もあった。
 この試合だけは、武蔵が出現した以上、中止することはできなかった。
 小次郎は、無言で武蔵を睨(にら)みつけつつ、迫って行った。
 五歩の距離にせばまった時、武蔵が、おちつきはらった語気で、云った。
「佐々木小次郎、その巌流虎切刀は、すでに敗れて居る!」
「なんだと!」
「勝負は、闘わずして、みえた」
「おのれがっ! まだ、この上、この佐々木小次郎を口先でまで計ろうとかっ!」
「その物干竿で、当方を斬る勝算なれば、なぜ、鞘を、海へ棄てた? お主は、意識せずして、愛刀を再び鞘に納められず、と知った」
「ほざくなっ!」
 小次郎は、とうとうと弁舌をふるう生来の才能を具備していたが、生涯に於ける最も重大なこの瞬間に於いて、武蔵のあざけりに対して、云い返す言葉が見つからなかった。その代り、長岡興長から、これほどの凶相を有(も)った太刀には、はじめて接した、ときかされた言葉が、ちらと、脳裡(のうり)をかすめた。
 小次郎は、怒涛(どとう)をくらうような名伏しがたい憤怒で、ぶるっと身ぶるいするや、武蔵に向って、猛然と奔(はし)った。
 その疾駆に対して、武蔵は、なぜか、砂地上での闘いをきらって、一直線に渚へ――水中へおのが身をはこんだ。
 砂浜は、小波(さざなみ)に洗われて居り、尖った石塊が白い水泡(みなわ)にもてあそばれているほどの、静かな凪(なぎ)であった。
 時刻は、巳下刻(みのげこく)(午前十一時)を過ぎて居り、陽光の満ちた試合場に、影はなかった。
 武蔵が、波打際へ達した時、小次郎は、そこへ至っていた。
 十分に間合いを見きった小次郎は、三尺一寸二分の物干竿をきえーっ、と横薙(よこな)ぎに送った。
 武蔵は、その凄(すさま)じい刀風にあおられたように、小波の立つ海面へ向って、跳躍した。
 固唾(かたず)をのんで見まもる長岡興長以下見物衆は、何故に、武蔵が、自ら望んで、身の動きの不自由な水中をえらんだのか、合点し難かった。
 小次郎自身、武蔵の戦法を看破できぬまま、大きく踏み出した右足を海水に濡らしつつ、残心の構えから、虎切刀の構えにもどして、
「来いっ、武蔵!」
 と、叫んだ。
 武蔵は、膝までつかり乍ら、じっと、小次郎を瞶(みつ)めかえした。
 その双眸から放つ光は、氷のように冷たかった。
 右手に携げた木太刀もまた、二尺あまり、海水の中にかくしていた。
「…………」
「…………」
 無言の睨みあいが、つづいた。
 およそ、ゆっくりと十もかぞえるくらいの微動だにせぬ対峙(たいじ)であった。
 ようやく――。
 小次郎が、いったん振りかぶった物干竿をおろして、じりっと、動いた。
 この対峙は、こちらから動かぬ限り、武蔵は、いつまでも、水中に立ちつくして待っている、とみたのである。
 小次郎の飛燕(ひえん)撃ちの虎切刀は、脚を使う必要はないのであった。
 間合をはかり、物干竿をふるう圏内に、武蔵を容(い)れたならば、絶対に勝つ自信が、小次郎には、あった。
 そこで――。
 小次郎は、自ら進んで、武蔵へ肉薄することにしたのであった。
 武蔵は、動かぬ。
 小次郎は、水底をさぐるように、用心ぶかい足どりで、ずぶ、ずぶ、と小波の中へ踏み込んで行った。
 そして、ついに、小次郎は、武蔵を、刃圏内に容れた。
 ――勝敗は、決定したぞ!
 小次郎の眼光は、うそぶいていた。
 武蔵は、あくまで、無表情であった。
 小次郎が、物干竿を大上段に、ふりかぶるのと、武蔵が、膝までつかっていた右足を挙げるのが、同時であった。
 

……第3部 「小次郎敗れたり」より


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