「誘拐されて」

R・L・スティーヴンスン/大場正史訳

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600円

若者デーヴィッド・バルファは遺産相続の権利をもちながら、欲深な伯父の陰謀によって「誘拐され」、アメリカ植民地へ奴隷として売られそうになる。だが船は難破、たまたま知り合ったジャコバイト党員のアランとスコットランドの荒野をさまよう。そこは内乱の影を宿す危険極まりない場所だった。スコットランド出身の作家が描く「宝島」とならぶ冒険物の代表作。

ロバート・ルイス・スティーヴンスン(1850〜94)はスコットランドのエディンバラ生まれ。生涯、病苦との戦いに明け暮れ、転々とボヘミアン的な生活をおくりながら、すぐれた物語を書き続けた。1883年に著した「宝島」は「ロビンソン・クルーソー」以来の傑作冒険物語と評判をとり、出世作となった。代表作「ジーキル博士とハイド氏」「バラントレー卿」「新アラビア夜話」「若い人々のために」

立ち読みフロア
 西暦一七五一年六月はじめのある朝、父の家の扉から最後に鍵をぬいた時から、この冒険談をはじめよう。道をおりてゆくにつれて、太陽は山々の頂きを照らしはじめた。私が牧師の宅へたどりついたころは、つぐみ《ヽヽヽ》は庭のライラックの中でさえずり、夜明けごろ谷間に立ちこめていた霧は晴れかけて消えようとしていた。
 エッスンディーンの牧師キャムベルさんは、親切にも庭の門のところで私を待っていてくれた。キャムベルさんは、朝ご飯をすませたかどうかとたずねた。私がなにも欲しくないというと、私の片手を両の手にとり、ひたとばかりやさしく小脇にかかえた。
「のう、デーヴィ」と彼はいった。「浅瀬のところまでいっしょにいってあげよう、旅立ちを見送るためにな」
 私たちは黙って歩き出した。
「エッスンディーンを離れるのは悲しいかね?」と彼はしばらくしていった。
「そうですね」と私は答えた。「どこへ行くのか、これから先きどうなることか、僕に見当がついていれば、はっきり申しあげられるんですが。エッスンディーンはほんとうにいいところです。僕はここで大へん幸福でした。でも、僕はこれまで、どこへも外へ出たことのない人間ですからね。父も母もなくなったんですから、これからはエッスンディーンにいても、ハンガリー王国にいても同じことだろうと思うんです。ほんとうのことをいうと、ゆく先きで出世の見込みでもあるなら勇んで行きたいところでしょう」
「そうかね」と、キャムベルさんはいった。「大へん結構だ、デーヴィ。では私の義務として、お前の財産を教えておかねばならん。教えられるだけは。お前のお母さんがなくなって、お父さん(立派なキリスト教徒だったよ)が病いの床につき、余命のいくばくもないことが分かると、お父さんはお前の遺産じゃとおっしゃって、私に一通の手紙を託されたわけじゃ。『わしが死んだら、すぐ』といわれたよ。『家を整理し、家財の処分のすみ次第(デーヴィ、これはみんな片づけたよ)、倅《せがれ》にこの手紙を渡し、クラモンドからあまり遠くない、ショウズ家へ旅立たせてくだされ。そこはわしの生家で、当然わしの倅が帰ってゆくところですから』とな。また、こうもいわれた、『倅は真面目な若者で、利口者です。きっと無事に行けると思いますし、どこへいってもすかれると思います』とな」
「ショウズ家ですって!」私は叫んだ。「死んだ父はショウズ家とどんな関係だったんですか?」
「うーん」とキャムベルさんがいった。「はっきりしたことは誰も分かろうはずがないじゃないか。けれど、デーヴィ、その家名はな、お前とおなじ姓で、ショウズのバルファ家というのじゃ。古い立派な名門の家だったが、たぶん、近頃になって衰えたらしい。お前のお父さんもまた、自分の地位に相応《ふさわ》しい学問のある方じゃった。あれほど立派に授業をやってのけたものはないぞ。態度といい、言葉つきといい、世間一般の先生とは違っておった。(お前だって覚えているように)お父さんを私の宅へ招いて、郷士《ごうし》たちに会わせるのは楽しみじゃったよ。私の一族であるキルレネットのキャムベル、ダンスワイアのキャムベル、ミンチのキャムベル、そのほかの有名な郷士たちは、お父さんと交際することを喜んでいた。最後にと、この件について一切がっさいうちあけるとじゃ、まず、これが遺書、なくなったお父さんの自筆でうわ書きがしてある」
 キャムベルさんは私にその手紙を渡した。宛名はこんなふうにしたためてあった。「ショウズ荘内、ショウズの郷士エビニーザ・バルファ殿、侍史。長子デーヴィッド・バルファ持参」エトリックの森の貧しい田舎教師の息子である十七歳の少年の眼前に、今や思いがけなくひらかれようとしている、この素晴らしい前途を眺めて私の胸は烈しく高鳴った。
「キャムベルさん」私はどもりながらいった。「もしあなたが私の立場におられたら、あなたはいらっしゃいますか?」
「たしかに」と牧師は答えた。「ゆくとも。すぐにゆくとも。お前のような、立派な若者ならクラモンドまで(エディンバラに近いんだよ)歩いて二日ありゃ行けるだろう。万が一にも、お前のえらい親戚の人たちが(私はたぶん、いくらか血のかよった人たちだと思うからね)追い出すようなことがあれば、も一度二日歩いてひきかえし、牧師館《うち》の戸をたたけるわけじゃないかね。けれど、お父さんが予言してるように、まずお前は歓迎されるだろうと思うし、またよくは分からんが、いずれ立派な人間になれようさ。ところで、ねえ、デーヴィ」と、彼は話をつづけた。「私の気にかかってならないのは、このお別れの機会に教えを説いて、お前を世の中の禍いからまもってやることなんだよ」
 そういって、キャムベルさんは、腰をおろすに都合のいいものはないかと、あたりを眺めまわした。道ばたの樺の木の下に大きな丸石があるのに眼をとめると、しかつめらしく上唇をうんとつき出して、これにどっかと腰をおろした。太陽はもう二つの峰のあいだに挾まれて私たちの頭上に照りつけていたので、彼は日をさえぎるため、縁反り帽の上にハンカチをのせた。それから人差し指を突ったてて、まず、私がまだ誘惑されたことのない異端の教えを数々あげて、用心を怠らぬようにといい、また、熱心にお祈りをして、聖書を読むことをすすめた。それが終ると、私の目ざすお屋敷の話にうつり、家の人たちに対し、どういうふうに振舞ったらよいか話した。
「些細《ささい》な事柄については、すなおにしていなさい」と彼はいった。「お前は家柄のよい家に生まれてはいるけれど、田舎育ちであることを、忘れないでいなさい。私たちを恥かしめてはいけないよ、デーヴィ、私たちを恥かしめてはいけないよ! その大きな、上にも下にも召使の多勢いる大きなお屋敷では、おとなしく、用心深く、気転をきかし、しかも、誰にも負けず口数をすくなくしなさい。ご主人についていえばだ――主人だということを忘れなさんな。もう何もいうまい。礼あるものには礼をつくせじゃ。主人に従うのは楽しいことだ。若いものは当然そうあるべきじゃ」
「はい」と私はいった。「さようですとも。必ずそうするように致しましょう」
「うーん、よくいった」とキャムベルさんは心から答えた。「さて、実質的な用事に、いや(しゃれていうと)非実質的な用事に、はいるとしよう。私はここに、四つのものが入っている小さな包みをもっている」彼は話しながら、上着の端のポケットから、やっとのことでそれをひっぱり出した。
「この四つのうち、最初のは法律上当然うけとるべきものだ。僅かな額だが、お父さんの書物と家具の代金で、これは私が、こんどやってくる先生に売って利益をあげるつもりで買ったのだよ(これは最初から説明しておいた通りじゃ)。ほかの三つは、家内と私の贈物で、受取ってもらえれば嬉しいと思う。最初の――円いのは、かどでのお前の喜びそうなもんだ。けれど、ね、デーヴィ、大海の一滴にすぎんから、一足歩くぐらいしか役には立たんよ。朝の露のようにたちどころに消えてしまうさ。二つ目の、ひらたくて、四角な字の書いてあるのは、旅の杖や、病気のときに頭をのせる枕のように、一生お前の伴侶になるだろう。箱型の、この最後のものについていうとな、お前をあの世へ道案内してくれる筈のものじゃ、これは私の信仰上の願いだがね」
 そういって、キャムベルさんは立ちあがると、帽子をぬいで、世の中へ出ようとする若い男のためにしばしのあいだ声高く、いたいたしい口調でお祈りをした。それから、不意に私を抱いて、大そうきつく抱擁した。それからまた腕いっぱい離して、顔じゅうを悲しみにゆがませて、私を見まもった。そして、つと体をひねると、さようならと叫びながら、私たちが通ってきた道をよたよたとひっ返していった。その恰好をほかの人が見たら、ふきだしたかもしれない。けれども、私にはちっとも笑えなかった。その姿が目に映っているあいだじっと眺めていた。彼は一度も足を止めなかったし、また一ぺんもふりかえらなかった。ふと、これはみんな別れの悲しみのせいだ、ということに気づいた。厳しい良心の呵責《かしゃく》を感じた。私としては、この静かな片田舎を出て大きな、忙しい屋敷へゆき、氏も血も同じの、金持ちで立派な上流人の仲間にはいることに有頂天になっていたから。

……冒頭より

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