「近代異妖編―岡本綺堂怪談集 2」

岡本綺堂作

ドットブック版 256KB/テキストファイル 130KB

400円

「青蛙堂鬼談」の続編で、以下の14編を収録。

 こま犬
 異妖編(いようへん)
 月の夜(よ)がたり
 水鬼(すいき)
 マレー俳優の死
 停車場(ていしゃば)の少女
 木曽の旅人
 影を踏まれた女
 鐘ヶ淵
 河鹿(かじか)
 指輪一つ
 父の怪談
 離魂病(りこんびょう)
 百物語

岡本綺堂(1872〜1939) 劇作家としては、「修善寺物語」「番町皿屋敷」など、旧来の歌舞伎に近代的な感覚を盛り込んで、新歌舞伎運動を推進したことで知られる。だが、 欧米のミステリーにもあかるく、翻訳を手がけるとともに、日本最初の時代ミステリーといってもよい「半七捕物帳」を書く一方、江戸・明治期の暮らしを活写した多くの「読み物」「エッセイ」でも人気作家となった。

立ち読みフロア
こま犬

 春の雪ふる宵に、わたしが小石川の青蛙堂に誘い出されて、もろもろの怪談を聞かされたことは、さきに発表した「青蛙堂鬼談」にくわしく書いた。しかしその夜の物語はあれだけで尽きているのではない。その席上でわたしがひそかに筆記したもの、あるいは記憶にとどめて書いたもの、数(かぞ)うればまだまだたくさんあるので、その拾遺というような意味で更にこの「近代異妖編」を草(そう)することにした。そのなかには「鬼談」というところまでは到達しないで、単に「奇談」という程度にとどまっているものもないではないが、その異(い)なるものは努(つと)めて採録した。前編の「青蛙堂鬼談」に幾分の興味を持たれた読者が、同様の興味をもってこの続編をも読了してくださらば、筆者のわたしばかりでなく、会主の青蛙堂主人もおそらく満足であろう。

 これはS君の話である。S君は去年久し振りで郷里へ帰って、半月ほど滞在していたという。その郷里は四国の讃岐(さぬき)で、Aという村である。
「なにしろ八年ぶりで帰ったのだが、周囲の空気はちっとも変らない。まったく変らな過ぎるくらいに変らない。三里ほどそばまでは汽車も通じているのだが、ほとんどその影響を受けていないらしいのは不思議だよ。それでも兄などにいわせると、一年増しに変って行くそうだが、どこがどう変っているのか、僕たちの眼にはさっぱり判らなかった」
 S君の郷里は村といっても、諸国の人のあつまってくる繁華の町につづいていて、表通りはほとんど町のような形をなしている。それにもかかわらず、八年ぶりで帰郷したS君の眼にはなんらの変化を認めなかったというのである。
「そんなわけで別に面白いことも何(なん)にもなかった。勿論、おやじの十七回忌の法事に参列するために帰ったので、初めから面白ずくの旅行ではなかったのだが、それにしても面白いことはなかったよ。だが、ただ一つ――今夜の会合にはふさわしいかと思われるような出来事に遭遇した。それをこれからお話し申そうか」
 こういう前置きをして、S君はしずかに語り出した。

 僕が郷里へ帰り着いたのは五月の十九日で、あいにくに毎日小雨(こさめ)がけぶるように降りつづけていた。おやじの法事は二十一日に執行されたが、ここらは万事が旧式によるのだからなかなか面倒だ。ことに僕の家などは土地でも旧家の部であるからいよいよ小うるさい。勿論、僕はなんの手伝いをするわけでもなく、羽織袴でただうろうろしているばかりであったが、それでもいい加減に疲れてしまった。
 式がすんで、それから料理が出る。なにしろ四五十人のお客様というのであるから随分忙がしい。おまけにこういう時にうんと飲もうと手ぐすねを引いている連中もあるのだから、いよいよ遣り切れない。それでも後日(ごにち)の悪口の種を播(ま)かないように、兄夫婦は前からかなり神経を痛めていろいろの手配をして置いただけに、万事がとどこおりなく進行して、お客様いずれも満足であるらしかった。その席上でこんな話が出た。
「あの小袋ヶ岡の一件はほんとうかね」
 この質問を提出したのは町に住んでいる肥料商の山木という五十あまりの老人で、その隣りに坐っている井沢という同年配の老人は首をかしげながら答えた。
「さあ、私もこのあいだからそんな話を聞いているが、ほんとうかしら」
「ほんとうだそうですよ」と、またその隣りにいる四十ぐらいの男が言った。「現にその啼声(なきごえ)を聞いたという者が幾人もありますからね」
「蛙じゃないのかね」と、山木は言った。「あの辺には大きい蛙がたくさんいるから」
「いや、その蛙はこの頃ちっとも鳴かなくなったそうですよ」と、第三の男は説明した。「そうして、妙な啼声がきこえる。新聞にも出ているから嘘じゃないでしょう」
 こんな対話が耳にはいったので、接待に出ている僕も口を出した。
「それは何ですか、どういう事件なのですか」
「いや、東京の人に話すと笑われるかも知れない」と、山木はさかずきをおいて、自分がまず笑い出した。
 山木はまだ半信半疑であるらしいが、第三の男――僕はもうその人の顔を忘れていたが、あとで聞くと、それは町で糸屋をしている成田という人であった――は、大いにそれを信じているらしい。彼はいわゆる東京の人に対して、雄弁にそれを説明した。
 この村はずれに小袋ヶ岡というのがある。僕は故郷の歴史をよく知らないが、かの元亀(げんき)天正(てんしょう)の時代には長曽我部氏(ちょうそかべし)がほとんど四国の大部分を占領していて、天正十三年、羽柴秀吉の四国攻めの当時には、長曽我部の老臣細川源左衛門尉というのが讃岐方面を踏みしたがえて、大いに上方(かみがた)勢を悩ましたと伝えられている。その源左衛門尉の部下に小袋喜平次秋忠というのがあって、それが僕の村の附近に小さい城をかまえていた。小袋ヶ岡という名はそれから来たので、岡とはいっても殆んど平地も同様で、場所によってはかえって平地より窪んでいるくらいだが、ともかくも昔から岡と呼ばれていたらしい。ここへ押寄せて来たのは浮田秀家と小西行長の両軍で、小袋喜平次も必死に防戦したそうだが、何分にも衆寡(しゅうか)敵せずというわけで、四、五日の後には落城して、喜平次秋忠は敵に生捕(いけど)られて殺されたともいい、姿をかえて本国の土佐へ落ちて行ったともいうが、いずれにしても、ここらでかなりに激しい戦闘が行なわれたのは事実であると、故老の口碑(こうひ)に残っている。
 ところで、その岡の中ほどに小袋明神というのがあった。かの小袋喜平次が自分の城内に祀っていた守護神で、その神体はなんであるか判らない。落城と同時に城は焼かれてしまったが、その社(やしろ)だけは不思議に無事であったので、そのまま保存されてやはり小袋明神として祀られていた。僕の先祖もこの明神に華表(とりい)を寄進(きしん)したということが家の記録に残っているから、江戸時代までも相当に尊崇されていたらしい。それが明治の初年、ここらでは何十年振りとかいう大水(おおみず)が出たときに、小袋明神もまたこの天災をのがれることは出来ないで、神社も神体もみな何処かへ押流されてしまった。時はあたかも神仏混淆(しんぶつこんこう)の禁じられた時代で、祭神のはっきりしない神社は破却の運命に遭遇していたので、この小袋明神も再建を見ずして終った。その遺跡は明神跡と呼ばれて、小さい社殿の土台石などは昔ながらに残っていたが、さすがに誰も手をつける者もなかった。そこらには栗の大木が多いので、僕たちも子供のときには落葉を拾いに行ったことを覚えている。
 その小袋ヶ岡にこのごろ一種の不思議が起った――と、まあこういうのだ。なんでもかの明神跡らしいあたりで不思議な啼声がきこえる。はじめは蛙だろう、梟(ふくろう)だろうなどといっていたが、どうもそうではない。土の底から怪しい声が流れてくるらしいというので、物好きの連中がその探索に出かけて行ったが、やはり確かなことは判らない。故老の話によると、昔も時々そんな噂が伝えられて、それは明神の社殿の床下に棲んでいる大蛇(おろち)の仕業(しわざ)であるなどという説もあったが、勿論、それを見定めた者もなかった。それが何十年振りかで今年また繰返されることになったというわけだ。
 人間に対して別になんの害をなすというのでもないから、どんな啼声を出したからといっても別に問題にするには及ばない。ただ勝手に啼かして置けばいいようなものだが、人間に好奇心というものがある以上、どうもそのままには捨て置かれないので、村の青年団が三、四人ずつ交代で探険に出かけているが、いまだにその正体を見いだすことが出来ない。その啼声も絶えずきこえるのではない。昼のあいだはもちろん鎮まり返っていて、夜も九時過ぎてからでなければ聞えない。それは明神跡を中心として、西に聞えるかと思うと、また東に聞えることもある。南にあたって聞えるかと思うと、また北にも聞えるというわけで、探険隊もその方角を聞き定めるのに迷ってしまうというのだ。
 そこで、その啼声だが――聞いた者の話では、人でなく、鳥でなく、虫でなく、どうも獣(けもの)の声らしく、その調子は、あまり高くない。なんだか池の底でむせび泣くような悲しい声で、それを聞くと一種悽愴(せいそう)の感をおぼえるそうだ。小袋ヶ岡の一件というのは大体まずこういうわけで、それがここら一円の問題となっているのだ。
「どうです。あなたにも判りませんか」と、井沢は僕に訊(き)いた。
「わかりませんな。ただ不思議というばかりです」
 僕はこう簡単に答えて逃げてしまった。
 
 ……冒頭より


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