「入れ札」―菊池寛名作集2

菊池寛作

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300円

菊池寛作の小説の代表作を網羅した名作集その二。以下の8作品を収めている。

 蘭学事始
 入れ札
 島原心中
 乱世
 仇討三態
 船医の立場
 吉良上野の立場
 仇討禁止令

菊池寛( きくちかん 1888〜1948)小説家、劇作家。香川県高松の生まれ。京大卒業後、時事新報社会部記者を経て、小説家に。1923年には私費で雑誌『文藝春秋』を創刊し大成功を収めた。日本文藝家協会を設立。芥川賞、直木賞の設立者でもある。

立ち読みフロア
 上州(じょうしゅう)岩鼻(いわはな)の代官を斬(き)り殺した国定忠次(くにさだちゅうじ)一家の者は、赤城山(あかぎやま)へ立て籠(こも)って、八州の捕方(とりかた)を避けていたが、其処(そこ)も防ぎきれなくなると、忠次を初(はじめ)、十四五人の乾児(こぶん)は、辛(ようや)く一方の血路を、斫(き)り開いて、信州路へ落ちて行った。
 夜中に利根川(とねがわ)を渡った。渋川の橋は、捕方が固めていたので、一里ばかり下流を渡った。水勢が烈(はげ)しいため、両岸に綱を引いて渡ったが、それでも乾児の一人は、つい手を離したため流されてしまった。
 渋川から、伊香保(いかほ)街道に添うて、道もない裏山を、榛名(はるな)にかかった。一日、一晩で、やっと榛名を越えた。が、榛名を越えてしまうと、直(す)ぐ其処に大戸(おおど)の御番所があった。
 信州へ出るのには、この御番所が、第一の難関であった。この関所をさえ越してしまえば、向うは信濃境(しなのざかい)まで、山又山が続いているだけであった。
 忠次達が、関所へかかったのは、夜の引き明けだった。わずか、五六人しか居ない役人達は、忠次達の勢(いきおい)に怖(おそ)れたものか、彼等の通行を一言も咎(とが)めなかった。
 関所を過ぎると、さすがに皆は、ほっと安心した。本街道を避けて、裏山へかかって来るに連れて、夜がしらじらと明けて来た。丁度上州一円に、春蚕(はるご)が孵化(かえ)ろうとする春の終の頃であった。山上から見下すと、街道に添うた村々には、青い桑畑が、朝靄(あさもや)の裡(うち)に、何処(どこ)までも続いていた。
 関東縞(じま)の袷(あわせ)に、鮫鞘(さめざや)の長脇差(ながわきざし)を佩(さ)して、脚絆(きゃはん)草鞋(わらじ)で、厳重な足ごしらえをした忠次は、菅(すげ)のふき下しの笠を冠(かぶ)って、先頭に立って、威勢よく歩いていた。小鬢(こびん)の所に、傷痕(きずあと)のある浅黒い顔が、一月に近い辛苦で、少し窶(やつ)れが見えたため、一層凄味(すごみ)を見せていた。乾児(こぶん)も、大抵同じような風体(ふうてい)をしていた。が、忠次の外は、誰も菅笠を冠ってはいなかった。中には、片袖(かたそで)の半分断(ちぎ)れかけている者や、脚絆の一方ない者や、白っぽい縞の着物に、所々血を滲(にじ)ませているものなども居た。
 街道を避けながら、しかも街道を見失わないように、彼等は山から山へと辿(たど)った。大戸の関から、二里ばかりも来たと思う頃、雑木の茂った小高い山の中腹に出ていた。ふと振り顧(かえ)ると、今まで見えなかった赤城が、山と山の間に、ほのかに浮び出ていた。
「赤城山も見収めだな。おい、此処(ここ)いらで一服しようか」
 そう云いながら、忠次は足下に大きい切り株を見付けて、どっかりと、腰を降した。彼の眼は、暫(しば)らくの間、四十年見なれた懐(なつか)しい山の姿に囚(とら)われていた。赤城山が利根川の谿谷(けいこく)へと、緩(ゆる)い勾配(こうばい)を作っている一帯の高原には、彼の故郷の国定村も、彼が売出しの当時、島村伊三郎を斬った境の町も、彼が一月前に代官を斬った岩鼻の町もあった。
 国越(くにごえ)をしようとする忠次の心には、さすがに淡い哀愁が、感ぜられていた。が、それよりも、現在一番彼の心を苦しめていることは、乾児の始末だった。赤城へ籠った当座は、五十人に近かった乾児が、日数が経(た)つに連れ、二人三人潜(ひそ)かに、山を降(くだ)って逃げた。捕方の総攻めを喰(く)ったときは、二十七人しか残っていなかった。それが、五六人は召捕られ、七八人は何処ともなく落ち延びて、今残っている十一人は、忠次のためには、水火をも辞さない金鉄の人々だった。国を売って、知らぬ他国へ走る以上、この先、あまりいい芽も出そうでない忠次のために、一緒に関所を破って、命を投げ出してくれた人々だった。が、代官を斬った上に、関所を破った忠次として、十人余の乾児を連れて、他国を横行することは出来なかった。人目に触れない裡に、乾児の始末を付けてしまいたかった。が、みんなと別れて、一人ぎりになってしまうことも、いろいろな点で不便だった。自分の目算通(もくさんどおり)に、信州追分(おいわけ)の今井小藤太の家に、ころがり込むにしたところが、国定村の忠次とも云われた貸元が、乾児の一人も連れずに、顔を出すことは、沽券(こけん)にかかわることだった。手頃の乾児を二三人連れて行くとしたら、一体誰を連れて行こう。そう思うと、彼の心の裡では、直ぐその顔触(かおぶれ)が定(きま)った。平生の忠次だったら、
「おい! 浅に、喜蔵に、嘉助(かすけ)とが、俺と一緒に来るんだ! 外の野郎達は、銘々思い通りに落ちてくれ! 路用(ろよう)の金は、分けてやるからな!」
 と、何の拘泥(こだわり)もなく云える筈(はず)だった。が、忠次は赤城に籠って以来、自分に対する乾児達の忠誠をしみじみ感じていた。鰹節(かつおぶし)や生米を噛(かじ)って露命を繋(つな)ぎ、岩窟(いわや)や樹の下で、雨露を凌(しの)いでいた幾日と云う長い間、彼等は一言も不平を滾(こぼ)さなかった。忠次の身体(からだ)が、赤城山中の地蔵山で、危険に瀕(ひん)したとき、みんなは命を捨てて働いてくれた。平生は老ぼれて、物の役には立つまいと思われていた闇雲(やみくも)の忍松(おしまつ)までが、見事な働きをした。
 そうした乾児達の健気(けなげ)な働きと、自分に対する心持とを見た忠次は、その中(うち)の二三人を引き止めて他の多くに暇をやることが、どうしても気がすすまなかった。皆一様に、自分のために、一命を捨ててかかっている人々の間に、自分が甲乙を付けることは、どうしても出来なかった。剛愎(ごうふく)な忠次も、打ち続く艱難(かんなん)で、少しは気が弱くなっている故(せい)もあったのだろう。別れるのなら、いっそ皆と同じように、別れようと思った。
 彼は、そう決心すると、
「おい! みんな!」と、周囲に散(ちら)かっている乾児達を呼んだ。烈しい叱(しか)り付けるような声だった。喧嘩(けんか)の時などにも、叱咤(しった)する忠次の声だけは、狂奔している乾児達の耳にもよく徹した。
 草の上に、蹲(うずく)まったり、寝ころんだり、銘々思い思いの休息を取っていた乾児達は、忠次の一喝(かつ)でみんな起き直った。数日来の烈しい疲労で、とろとろ眠りかけているものさえあった。
「おい! みんな」
 忠次は、改めて呼び直した。『壺皿見透(つぼざらみとお)し』と、若い時綽名(あだな)を付けられていた、忠次の大きい眼がギロリと動いた。
「みんな! 一寸(ちょっと)耳を貸して貰(もら)いてえのだが、俺(おらあ)これから、信州へ一人で、落ちて行こうと思うのだ。お前達(めえたち)を、連れて行きてえのは山々だが、お役人をたたっ斬って、天下のお関所を破った俺達が、お天道様(てんとうさま)の下を、十人二十人つながって歩くことは、許されねえ。もっとも、二三人は、一緒に行って貰いてえとも思うのだが、今日が日まで、同じ辛苦をしたお前達みんなの中から、汝(われ)は行け汝は来るなと云う区別は付けたくねえのだ。連れて行くからなら、一人残らず、みんな一緒に連れて行きてえのだ。別れるからなら、恨みっこのねえように、みんな一様に別れてしまいてえのだ。さあ、ここに使い残りの金が、百五十両ばかりあらあ。みんなに、十二両ずつ、くれてやって、残ったのは俺が貰って行くんだ。銘々に、志を立てて落ちてくれ! 随分、身体(からだ)に気を付けろ! 忠次が、何処かで捕まって、江戸送りにでもなったと聞いたら、線香の一本でも上げてくれ!」
 忠次は、元気にそう云うと、胴巻の中から、五十両包みを、三つ取り出して、熊笹(くまざさ)の上に、ずしりと投げ出した。
 が、誰もその五十両包みに、手を出すものはなかった。みんなは、忠次の突然な申出に、どう答えていいか迷っているらしかった。一番に、乾児達の沈黙を破ったのは、大間々(おおまま)の浅太郎だった。
「そりゃ、親方悪い了簡(りょうけん)だろうぜ。一体俺達が、妻子眷族(けんぞく)を見捨てて、此処(ここ)までお前さんに、従(つ)いて来たのは、何の為だと思うのだ。みんな、お前さんの身の上を気遣(きづか)って、お前さんの落着くところを、見届けたいと思う一心からじゃないか。いくら、大戸の御番所を越して、もうこれから信州までは大丈夫だと云ったところで、お前さんばかりを、一人で手放すことは、出来るものじゃねえ。尤(もっと)も、こう物騒な野郎ばかりが、つながって歩けねえのは、道理(ことわり)なのだから、お前さんが、此奴(こいつ)だと思う野郎を、名指しておくんなせえ。何も親分乾児の間で、遠慮することなんかありゃしねえ。お前さんの大事な場合だ! 恨みつらみを云うような、ケチな野郎は一人だってありゃしねえ。なあ兄弟!」
 みんなは、異口同音に、浅太郎の云い分に賛意を表した。が、そう云われてみると、忠次は尚更(なおさら)選みかねた。自分の大事な場所であるだけに、彼等の名前を指すことは、彼等に対する信頼の差別を、露骨に表わす事になって来る。それで、選に洩(も)れた連中と――内心、忠次を怨(うら)むかも知れない連中と――そのまま、再会の機(おり)も期し難く、別れてしまわねばならぬ事を考えると、忠次はどうしても、気が進まなかった。
 忠次は口を噤(つぐ)んだまま、何とも答えなかった。親分と乾児との間に、不安な沈黙が暫らく続いた。
「ああ、いい事があらあ」釈迦(しゃか)の十蔵と云う未(ま)だ二十二三の男が叫んだ。彼は忠次の盃(さかずき)を貰ってから未だ二年にもなっていなかった。
「籤引(くじびき)がいいや、みんなで籤を引いて、当った者が親分のお供をするのがいいや」
 当座の妙案なので、忠次も乾児達も、十蔵の方を一寸見た。が、嘉助という男が直ぐ反対した。
「何を云ってやがるんだい! 籤引だって! 手前の様な青二才に籤が当ってみろ、反(かえ)って、親分の足手纒(まと)いじゃねえか。籤引なんか、俺あ真っ平だ。こんな時に一番物を云うのは、腕っ節だ。おい親分! くだらねえ遠慮なんかしねえで、一言、嘉助ついて来いと、云っておくんなせい」
 四斗樽(しとだる)を両手に提げながら、足駄(あしだ)を穿(は)いて歩くと云う嘉助は一行中で第一の大力だった。忠次が心の裡で選んでいる三人の中の一人だった。
「嘉助の野郎、何を大きな事を云ってやがるんだい。腕っ節ばかりで、世間は渡られねえぞ。ましてこれから、知らねえ土地を遍歴(へめぐ)って、上州の国定忠次で御座いと云って歩くには、駈引(かけひき)万端(ばんたん)の軍師がついていねえ事には、どうにもならねえのだ。幾ら手前が、大力だからと云って、ドジ許(ばか)り踏んでいちゃ、旅先で、飯にはならねえぞ」
 そう云ったのは、松井田の喜蔵と云う、分別盛りの四十男だった。忠次も喜蔵の才覚と、分別とは認めていた。彼は、心の裡で喜蔵も三人の中に加えていた。
「親分、俺あお供は出来ねえかねえ。俺あ腕節(うでっぷし)は強くはねえ。又、喜蔵の様に軍師じゃねえ。が、お前さんの為には、一命を捨ててもいいと、心の内で、とっくに覚悟を極(き)めているんだ」
 闇雲(やみくも)の忍松が、其処まで云いかけると、乾児達は、周囲から口々に罵(ののし)った。
「何を云ってやがるんだい、親分の為に命を投げ出している者は、手前一人じゃねえぞ、巫山戯(ふざけ)た事をぬかすねえ」
 そう云われると、忍松は一言もなかった。半白(はんぱく)の頭を、テレ隠しに掻(か)いていた。
 そうしているうちに、半時ばかり経った。日光山らしい方角に出た朝日が、もう余程さし登っていた。忠次は、黙々として、みんなの云う事を聴いていた。二三人連れて行くとしたら、彼は籤引では連れて行きたくなかった。やっぱり、信頼の出来る乾児を自ら選びたかった。彼は不図(ふと)一策を思い付いた。それは、彼が自ら選ぶ事なくして、最も優秀な乾児を選み得(う)る方法だった。
「お前達の様に、そうザワザワ騒いでいちゃ、何時(いつ)が来たって、果てしがありゃしねえ。俺一人を手離すのが不安心だと云うのなら、お前達の間で入(い)れ札(ふだ)をしてみちゃ、どうだい。札数の多い者から、三人だけ連れて行こうじゃねえか。こりゃ一番、怨みっこがなくって、いいだろうぜ」

……「入れ札」冒頭より

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