「帰郷」(上・下)

トマス・ハーディ/小林清一・浅野萬里子訳

(上)ドットブック版 385KB/テキストファイル184KB
(下)ドットブック版 386KB/テキストファイル 185KB

各800円

クリムは英国の大学を出てパリに行き、宝石商として成功したが、貴婦人の虚飾にへつらう商売がいやになり、愛する郷里エグドン荒野で、学校を開こうと考えて帰ってくる。そこに待ち受けていたのは女神のように気ままで誇り高いユーステイシアだった。クリムは母の猛反対を押し切って結婚する。だが、ユーステイシアにはワイルディーヴという密通の相手があった。クリムの母の死をめぐるいさかいから二人は別居し、沈むユーステイシアはワイルディーヴの誘いに乗ってパリへ脱出を図るが……全体はギリシア悲劇の様式にならって、長い物語は1年と1日で終止符を打つ。立ち読みに取り上げた冒頭はエグドン荒野の描写の一端で、深く暗いながらも崇高な永遠性をもつ物語の背景が的確に描写されている。

トマス・ハーディ(1840〜1928)イングランド南西部ドーセット州の生まれ。19世紀後半には小説家として多くの長短編を著したが「日陰者ジュード」を最後に小説から手をひき、20世紀はもっぱら詩人として活躍した。生前は賛否両論であったが、死後は小説も詩も最高の評価を与えられ、いまも世界中で読まれ続けている。その小説はすべて生まれ故郷をふくむウェセックスの田舎を舞台にしている。「帰郷」のほか代表作に「はるか群衆を離れて」「ダーバビル家のテス」「カスターブリッジの町長」「日陰者ジュード」がある。

立ち読みフロア
第一編 三人の女

 一 「時」の刻印のあまり残らぬ野面

 十一月のある土曜の午後がたそがれ時に迫っていた。エグドン荒野(ヒース)として知られる広大な果てしない荒野は、刻一刻と薄墨色を帯びていった。頭上の、うつろに広がって空を閉じこめている白っぽい雲は荒野(ヒース)全体を床(ゆか)とするテントのようであった。
 天にはこのほの白い帳(とばり)が、地には黒々とした植物が、一面に広がって、両者が地平線で出会う線はくっきりとしていた。そうした対照をなして、荒野(ヒース)は天文時がまだ来ないうちに早くもやってきた夜の一部のようであった。ここには暗闇がしたたか押し寄せているのに、空には、昼の光がはっきりと残っている。ハリエニシダ刈りが空を仰ぎ見れば、もっと仕事を続ける気になったであろうし、下を見れば、薪束作りを終えて帰ることに決めただろう。地と天とのはるか遠くの境目は、物質の区分であると同様に時間の区分とも見えた。荒野(ヒース)の顔はその色だけで半時間は夕暮れを早めた。同様に、夜明けを遅くし、真昼の色をくすませ、ほとんど起こらぬ嵐の渋面を先取りし、月のない真夜中の闇をさらに濃くして、身の毛もよだつおそろしいものにする。
 事実、エグドン荒野(ヒース)が夜の暗闇へと移りゆくちょうどこの時にこそ、エグドン荒野の偉大な独特の壮観が始まるのであって、こうした時そこに居合わせた者でなければこの荒野がわかっているとは言えないだろう。この荒野はそれが定かには見分けられない時にこそ、もっともよく感じとられる。つまり、この時とこれに続く夜明けまでの何時間かのうちに荒野の余すところない趣と語りかけがあるのである。その時、ただその時にだけ荒野が真実を語るのである。ここはじつに、夜の近親であり、夜が姿を見せると、その暮色と情景にたがいに引き合うさまが見てとれる。うす暗く長く続く丸い丘とくぼ地のうねりが起きあがって、夕闇を迎えるさまは真の以心伝心のようであり、天がすばやく暗闇を投げ落せば、荒野も負けじと暗がりを吐き出すのである。このように、空の闇と地上の闇とはたがいに中間点まで歩み寄り、暗闇の親密な交わりを結ぶのである。
 今やこの場所は極度の目ざとさに満ちている。というのは、ほかのものが皆うつらうつらと眠りこむころ、荒野はゆっくりと目をさまし、聞き耳を立てるように見えるからである。夜ごと、巨人タイタン風のその姿は何かを待ち受けているように見えた。しかし、このように微動だにせず何世紀もの間待ち続けて、幾多の危機を通り抜けてきたからには、最後の危機――最終の破滅を待っているのだとしか考えられない。
 ここは、ここを愛する人々の胸に独特の、快適な、人々にふさわしい姿で蘇ってくるところだった。花と果物の、にこやかな平野ではこんなことはあるまい。というのは、そんなところは、いろいろの点で現世よりも良いという評判のあの世の生活にのみ永遠に調和するものだからである。たそがれはエグドン荒野(ヒース)の風景と結びついて、峻烈でなく荘厳な、けばけばしくなく感銘的な、諌(さと)しを強調し、素朴にして雄大なものを生みだしたのである。牢獄の正面に、その二倍も大きい宮殿の外観にも見られない威厳があることがあるが、それと同様に、いわゆる景勝の地などにはぜんぜん見られない荘厳さがこの荒野に与えられている。うるわしい眺めはうるわしい時と一緒にあってこそめでたいのである。しかし、もし時がうるわしくなかったら!(何の眺めぞや?)人は、悲しすぎる色合いの環境に打ちひしがれて苦しむよりも、むしろ、ばかににこやかすぎると見える場所で苦しい思いをすることのほうが多い。やつれたエグドンは、魅力的とか美しいとかいう類(たぐい)の美に反応する本能に訴えるよりも、むしろ、より鋭敏な、まれにみる本能、つまり比較的近年になって知られるようになった感情に訴えた。
 実際、この正統的な美の独占支配はもう最後に近づいているのではなかろうか。新しい「テンペの渓谷」とは「シューリのわびしい荒野」のことかもしれない。人の魂は、わが人類がいまだ若かったころには顔をそむけていたようなほの暗い外界とますますしっくりと調和していくだろう。原野、海、山などの抑制された荘厳美のみが、人類の中の心ある人々の気持ちにぴたりと来る自然美であるという時代が、実際にはまだ来ていないが、近づいているようである。そして、もっとも普通の旅行者さえも、今は南ヨーロッパのぶどう畑や天忍花の庭を好んでいるが、結局、アイスランドのようなところにかわるかもしれない。そしてハイデルベルグやバーデンなどは素通りして、アルプス山脈からシェイベニンゲンの砂丘へと急ぐであろう。
 もっとも徹底した苦行者も、エグドンを逍遥することだけは彼の当然の権利だと感じ得たであろう。彼がそうした影響力に身をさらすのは正当な道楽の線内に居ることである。これほどまで抑制された色と美は、少なくとも万人の生得権であった。夏の盛りの日々にだけ、エグドンの気分も「陽気」の水準に達した。「強烈さ」には通常、華美なものよりも厳粛なものによって到達する。そしてそうした類の「強烈さ」にはしばしば、冬の暗さ、嵐、霧などのあるあいだに到達する。そんな時、エグドンは相互依存関係に目覚める。というのは嵐はその愛人であり風はその友人であるから。そんな時、ここは異様な幻の住み家となる。ここはまた真夜中に見る敗走と危難の夢の中で、我々を取り囲んでいるとおぼろげに感じられ、その夢のあとではどうしても思い出せず、このようなところに来て初めて思いあたるあの暗い荒野の、今までは気のつかなかった原型であることがわかるのである。
 この地は今は、人間性と完全に調和していた、――ぞっとするようでもなく、忌まわしくもなく、醜くもない。陳腐でも、無意味でもなく、人馴れしてもいない。しかし、人間のように、軽んじられてもじっと我慢する。そのうえ、黒ずんだ単調なようすには限りない大きさと神秘がこもっていた。長い間離ればなれに暮らしてきた人びとのように、寂しさがその顔から覗いている。それは悲劇の可能性を偲(しの)ばせるわびしい顔を持っている。

……冒頭より


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