「漂泊の人」

ヘルマン・ヘッセ/芳賀檀訳

ドットブック版 166KB/テキストファイル 96KB

400円

生まれながらの漂泊者クヌルプを主人公にした3つの物語(「早春」「クヌルプへの私の思い出」「終焉」)からなる散文詩的な作品。美と歓喜とをもとめて放浪するクヌルプは、世間的には変人であり、敗残者かもしれない。しかし、だれの心にもそうした念願は埋もれていて、ときにクヌルプはよき道づれにもなる存在でもある。

ヘルマン・ヘッセ(1877〜1962) 南ドイツの小さな町カルヴの宣教師の息子。時計の歯車磨き助手、書店員などをへて、「郷愁」で広く認められて作家に。作品はすべて自伝的で、苦悩をへてある種の解脱へと到達する内容が特色となっている。代表作「郷愁」「車輪の下」「デーミアン」「荒野の狼」「知と愛」「シッダールタ」「ガラス玉演戯」。

立ち読みフロア
 一八九〇年代の始めごろ、僕らの友人クヌルプは数週間にわたって病院に寝ていなければならなかった。さて、彼が退院したのは二月の半ばのことで、ひどい天気つづきと来ている。そこで、彼はたった二三日放浪の旅をやってみただけで、またすぐ熱を出してしまった。どこか屋根の下に宿泊する算段をしなければならない。彼のことだから友人にことは欠くまい。この辺りのどんな小さな町に行ったって、快く彼を迎えてくれる所はどこにでもあったろう。
 しかし、こういう点については彼はふしぎなくらい気位が高かった。その見識は大したもので、したがって、もし彼が誰か友人から何がしかのもの《ヽヽ》を受けとった、とでもいうことになると、それは非常な光栄とみなされねばならぬほどだった。
 さて、このたび、その光栄をになうことになったのはレヒシュテッテンの皮なめし匠エミール・ロートフゥスだった。クヌルプはこの男のいたことを思い出したのだ。もう閉じられていた皮なめし匠の家の扉《と》を、たたいたのは、雨が降って、西風がひどく吹きつける夜のことだった。皮なめし匠は二階の窓枠を細目にあけて、真っ暗な下の通りに向って怒鳴りつけた。「誰だい、今ごろ、外《そと》にまごまごしている奴は? まだ夜が明けるにゃ間があらあ?」
 クヌルプはこの昔なつかしい友人の声をきくと、くたくたに疲れ切っていたのが、急に元気をとり戻したような気がした。彼は数年以前エミール・ロートフゥスと一緒に四週間ほどさすらいの旅をつづけたことがあった。そのとき彼が作った詩の一句をふと思い出したのだった。とっさに彼はその歌の文句を二階に向けて歌いあげたものだ。

 一宿一飯にありついたのは、
 疲れた遍路の旅の人。
 何をかくそうこやつこそ、
 あの失われた蕩児です。

 皮なめし匠はあわてて窓の扉《と》を押しあけると、窓からぐっと身《からだ》をのり出すようにして、そとをうかがった。
「はてな。そういう声はクヌルプらしいが? それともクヌルプの幽靈が迷ってでも出てきたか?」
「僕だよ!」とクヌルプは叫んだ。「まあ階段づたいに下へ降りて来いよ。それとも窓からとび降りて来ようってのかい?」
 友人はうれしさのあまり、あわててとび降りてきた。窓の扉をあけると小さなくすぶっている石油ランプの灯《ひ》を、来訪者の顔につきつけた。クヌルプはまぶしそうに眼をまたたいた。
「まあ、いいから、はいんなよ!」友人は興奮して叫ぶと、彼を家の中へ引っぱり込んだ。「話はあとできく。まだ何か晩飯ののこりものぐらいはあるだろうし、それにベッドだって用意がある。どうしてやって来られたのかね。このひどい天気に! あいかわらずよっぽど上等の長靴でもはいていると見えるなあ。お前のことだから?」
 クヌルプは友人の矢つぎ早やの質問やら、嘆声やらを頭の上にきき流しながら、入口の段の上で捲きあげていたズボンのひだを丹念に降し、それから暗い階段を勝手知った様子で上へあがって行った。もう四年間もこの家の閾《しきい》をまたいだことは一度もなかったのだが。
 上の廊下のところ、部屋の扉の前で、クヌルプはちょっと立ち止り、中へ招じ入れようとする友人の手をとって引き止めた。
「ねえ、君」とクヌルプは囁いた。「君は今はもう奥さんがあるんだろう?」
「そうだよ、女房はもらったよ」
「だからさ。――解ってるだろう。君の奥さんは僕という人間をご存知ないのだし。奥さんが迷惑だと思われるか知れないよ。お邪魔になるのは僕もいやだから」
「ああ、何が邪魔なものか!」
 ロートフゥスは笑って扉をいっぱいに引きあけると、明るい部屋の中にクヌルプを押し込んだ。そこには大きな食卓の上に、大型の石油ランプが三本の鎖で釣り下げられてあった。軽い煙草の煙が漂っていたが、淡い筋《すじ》になって、熱せられたランプのほや《ヽヽ》の方に押し流され、そこで急に渦巻きになって天井の方に昇ってゆき、どこともなく消えて行くのだった。テーブルの上には新聞がおかれてあり、煙草をいっぱいにつめた豚の膀胱《ふくろ》がころがされてある。横手の壁ぎわに寄せられた細長い長椅子からは、うたた寝の邪魔をされたが、それを気ぶりに悟られまいとするかのように、ものうい、恥ずかしそうな快活さをもって、若いおかみさんがとび起きたところだった。クヌルプはまるではげしい光りに照されたときのようにちょっと眩しそうに目をまたたいたが、奥さんの淡い灰色の眼の中をじっとのぞき込むと、鄭重なあいさつの辞をのべながら握手の手をさし出した。

 ……「早春」より

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