「腰ぬけ連盟」

レックス・スタウト/佐倉潤吾訳

ドットブック版 290KB/テキストファイル 229B

600円

チャピンは暴力をテーマにした新進作家として成功するが、彼を不具にした責任を感じて長らく援助の手をさしのべてきた善意の人びと「贖罪連盟」のメンバーには、変死や行方不明という事件がつぎつぎと襲いかかる。その背後にはチャピンがいるのでは? 「贖罪連盟」は恐慌状態におちいり、「腰ぬけ連盟」に! ウルフはこの連盟から死の恐怖を取り除いてほしいという依頼を受けた。厚みのある展開、意外性、ウルフとアーチーの絶妙のコンビ……シリーズ最高傑作のひとつに数えられる名編。

レックス・スタウト(1886〜1975) 米国インディアナ州生まれ。両親はクエーカー教徒。若いころは多数の職を転々としながら、詩や小説を書く。30歳頃にあるアイデアから大金を得たが、大恐慌で破産。1934年、48歳のときに発表したミステリー「毒蛇」でたちまち人気作家に。以後この「ネロ・ウルフ」シリーズは、長編だけでも34作に達した。この探偵は、古今の探偵のなかでも、最も魅力のある人物のひとりである。

立ち読みフロア
 ウルフとぼくは事務室にいた。金曜日の午後のことだ。後から思えば、ポール・チャピンという名前と、ただで大量復讐をやろうという彼の巧妙な、けちくさい計画は、やがていやでもぼくたちの耳にはいることだったんだが、そのときはそんなこととは知らなかった。これから始まろうという芝居の序幕は、十一月上旬の雨と、儲かるような仕事が長い間なくて、そろそろ苦痛になってきたという状態を背景として、この日の午後、幕があいたというわけだが、この幕はほんのプロローグで、まだ本筋には入らない。
 ウルフはビールを飲みながら、誰かがチェコスロヴァキアから送って来た本のなかの雪片の写真を見ていた。ぼくは朝刊を拾い読みしていた。朝食のときにも読んだし、十一時にホルストマンと勘定のつけ合せをしてしまってから、また三十分ばかり、ちらっと眼を通したが、この雨降りの午後に、頭を刺戟するような記事が一つや二つありはしまいかと、ぼんやり考えながら、またもう一度見ていたところだ。用がなくてぼくの脳髄は乾からびてしまいそうだったものな。
 ぼくは本は読むんだ、だが本では心から満足したことはない。本には生命というものがないという気がする。まるっきり死んでいる、何の役にも立たない、墓場でピクニックをして楽しもうというのと同じことだ。ウルフがいつだったかぼくに、何だって読書家のようなふりをするんだと聞いたことがある。ぼくが教養を高めるためだと言ってやったら、彼はそんな骨折りは必要がないと言った。教養というのは金(かね)のようなもので、少しも必要としない人間にもっとも簡単に手に入るものだと言った。
 とにかく、午後も半ばというのに、朝刊を、しかも、もう二度も読んでしまったのをまた読んでいるんだから、新聞といっても本と別に変わりゃしない。これにしがみついているのは、ただ眼をあけているための手段に過ぎない。
 ウルフは写真に夢中になっているようだった。これを見てぼくは、やっこさん、自然と戦っているな、と心の中で言ってやった。ここに坐って気楽そうに雪の写真をながめているくせに、荒れ狂う猛吹雪を突破しているつもりなんだ。これが芸術家の特性、空想力の持ち主の特権というものさ。ぼくは声に出して言ってやった。
「眠っちゃいけませんよ、危険ですよ。凍死しますよ」
 ウルフはしらん顔してページをめくった。
 ぼくは言ってやった。「カラカスから、リヒャルトのところから、送ってきた荷物は、球茎が十二足りませんよ。いままで足りなくたって、あの男は弁償したことなんかありませんよ」
 依然として手ごたえなし。ぼくは言ってやった。「フリッツの話だと、あの届けて来た七面鳥は、焼くには年をとり過ぎてて、二時間ローストしないと柔らかくならないそうですよ。そんなにしたら、あなたの説によると、風味がなくなっちまいますよ。一ポンド四十一セントの七面鳥が、台無しになっちゃいますよ」
 ウルフはまたページをめくった。ぼくはしばらく彼のほうを睨みつけて、こんどはこう言ってやった。
「ペット猿を飼っている女がいて、この猿がベッドの枕もとで眠って、しっぽをその女の人の手首に捲きつけるっていう新聞記事、読みましたか? 一晩中そうさせておくんですよ。ある男が往来でネックレスを拾って、これを持ち主に届けたら、その持ち主の女が真珠が二粒とられてるって言って、その男を逮捕させた記事、これはどうです? それからこういう記事がありますよ。猥褻(わいせつ)本の事件の公判で証言させられた被告が、弁護士にその本を書いた意図を聞かれて、こう答えているんです。自分は殺人を犯した、殺人犯人というものは必ず自分の犯した罪のことを語らずにはいられない、自分はこうして自分の犯罪を告白しているんだって。私には、わけがわかりませんねえ、その著者の意図っていうのが。
 不潔な本はなんにしたって不潔なんで、どうしてそうなったかなんてことは問題じゃありませんよ。弁護士は著者の意図が立派な文学的な目的にあるなら、猥褻であっても構わないと言ってます。これじゃ私の意図が罐詰の罐に石をぶつけるということにあるんだったら、その石があなたの眼に当たったって構わないっていうのと同じじゃありませんか。私の意図が、おばあさんが年とって何だから、絹のドレスを買ってやりたいって言うんだったら、救世軍の社会鍋から金をかっぱらっても構わないっていうのと同じじゃありませんか。もっと例をあげれば――」
 ぼくは言葉を止めた。とうとう勝った。ウルフはページから眼をあげない、頭も動かさない、机の後ろの特別誂(あつら)えのばかでかい椅子に収まった巨体はじっとしたままだ。しかし右手の人差指が微かに動くのが見える――これは彼の逆鱗(げきりん)に触れた証拠だ、前に彼からそう言われたことがある。それでぼくには、勝ったのがわかった。
「アーチー、黙んなさい」
 ぼくはにやっと笑ってやった。
「だめです。私に死ぬまでここへこうして、ただ坐っていろって言うんですか? ピンカートン探偵事務所へ電話して、ホテルの部屋の見張りか何か、仕事はないかって聞いてみましょうか? 家へダイナマイトの樽をおいとく以上は、いつか音をたてるのは覚悟してないといけませんよ。私がそれです、ダイナマイトの樽です。映画へでも行ってましょうか?」
 ウルフの巨大な頭が、一インチの十六分の一ほど前に傾いた。彼にはこれが力をいれて肯(うなず)いたということになるんだ。
「ぜひそうしてくれ。すぐ」
 ぼくは椅子から立ちあがって、新聞を部屋の向こうのぼくの机に向かって、いいかげんに投げつけておいて、また向き直って椅子に戻った。「私の例証のどこが間違っているんです?」と聞いてみた。
 ウルフはまたページをめくった。それからおもむろに呟いたね。「そりゃあ君は例証の大家だ。そうしておこう」
「いいですよ。そうしておきましょうよ。私は喧嘩するつもりはないんですからね。どういたしまして。私は気持ちがいらいらしてるだけなんです。脚を組むのに、右が上でも左が上でもない、もっと別の方法がありはしまいかと思って、それを考えるのに頭を悩ましているもんで。もう一週間以上も考えているんです」
 ウルフの脚ときたら、とても肥っているんで、どんな組み方をしたって組めっこないんだから、こんな問題は考えられっこないと、そのとき気がついたが、これは言わないことにした。ぼくは話をそらせた。
「私はあくまでもこう思いますよ、不潔な本は、なんにしたって不潔なんです、いくら著者がその意図というのを、秋の夜長のように長々しく並べ立てたって、同じことです。昨日その証言をした男っていうのは、馬鹿ですよ。そうじゃありませんか。そうですよ。さもなければですよ、どんなに高くついてもかまわないから、何か大見出しで書いてもらいたかったんです。法廷侮辱で五十ドルとられてます。それじゃ、その本の広告にゃ安いですよ。百ドル札の半分で、《ニューヨーク・タイムズ》の文芸欄が四インチばかり買えたんですからね。しかも本当の自白はこれっぱかりもしているわけじゃないんですからね。
 だけど私は、あいつは馬鹿だと思いますね。自分は殺人を犯した、殺人者というものは誰でも告白せずにはいられない、だから自分は、自分の身に危険がかからないように告白する手段として、人物と情況を変えてこの本を書いたんだ――あいつはこう言ってます。
 判事は頭がよくて、皮肉でしたね。いくら話を作るのが商売で、いま法廷に立っているからと言って、廷は廷でもそれじゃ宮廷の道化師の真似だ、そんなことまでしなくてもいいだろうってね、こう言いましたよ。これには、弁護士たちもきっと腹を抱えて笑ったでしょうね。ねえ? 
 しかし著者は、決して冗談じゃない、この本はそういう理由で書かれたもので、猥褻なところがあるとすれば、それは単なる偶然だ。本当に自分は人を一人殺したんだっていうんです。それで判事は法廷侮辱罪で奴から五十ドル捲きあげて、証言席から追っ払っちゃったんです。あいつは馬鹿ですよ。そうですよ」
 ウルフが一つ吐息をついたら、大きな胸が盛りあがってまた引っこんだ。それから本に栞(しおり)をはさんで、閉じて、机の上に置いて、おもむろに重々しく椅子にもたれた。
 彼は二度まばたきをした。「それで?」
 ぼくは自分の机のところへ行って、新聞をとって、そのページのところを開いた。
「それだけのことでしょう。馬鹿なんですよ。名前はポール・チャピンといって、いくつも本を書いてます。問題の本の標題は『悪魔は最後の人をさらう』っていうんです。一九一二年のハーヴァード大学の卒業生です。それで、《ロップ》なんです。びっこをひきながら証言席に上っていったことが、ここに書いてありますが、どっちの脚だか、それは書いてありません」
 ウルフは、唇をぎゅっと結んだ。「《ロップ》というのは《左右不均衡(ロップサイデッド)》を略した言葉で、びっこの比喩にそれを使うのだね?」とこう聞くんだ。
「比喩かどうかは知りませんがねえ、《ロップ》といやあ、私たちの間じゃびっこのことです」
 ウルフはまた吐息をついた。それから、椅子から立ちあがるモーションを開始した。
「やれやれ」と彼は言った、「時間になった。これ以上例証と俗語に悩まされなくてもすむな」
 壁の時計は四時一分前を指していた――彼が植物室へ上って行く時間だ。彼は立ちあがった。チョッキの隅を引っぱりおろしたが、膨れあがってはみ出している明るい黄色のワイシャツのひだを隠すことは、例によって不可能だった。それからドアのほうに向かっていった。
 閾のところで立ち止まった。「アーチー」
「はい」
「マージャー書店に電話して、そのポール・チャピンの『悪魔は最後の人をさらう』を一冊、すぐ届けるように言いなさい」
「多分だめでしょうよ。判決があるまで、発売禁止です」
「馬鹿なことを。直接マージャーなりバラードなりに言うといい。猥褻裁判の効用は、文学書の宣伝ということ以外にはない」
 彼はエレベーターのほうへ行った。ぼくは自分の机に坐って、電話に手をのばした。

……巻頭より


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