「古典落語・長屋ばなし」

矢野誠一編

ドットブック版 150KB/テキストファイル 89KB

500円

古典落語の代表「長屋ばなし」の傑作選。収録作品は以下の9編

「長屋の花見」
「井戸の茶碗」
「粗忽(そこつ)長屋」
「小言幸兵衛(こごとこうべえ)」
「今戸(いまど)の狐」
「寝床」
「三軒長屋」
「富久(とみきゅう)」
「らくだ」
矢野誠一(1935〜)東京生まれ。麻布学園、文化学院に学ぶ。演劇・演芸評論を手がけるとともに、落語家をはじめとするさまざまな芸人の評伝ならびにエッセイを執筆している。おもな著書に「落語歳時記」「志ん生のいる風景」「女興行師吉本せい」など。
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長屋の花見

 一年のうちで、いちばん心がうきうきする季節と申しますと、やはり春でございましょうな。春は花なぞと申しまして
 佃(つくだ)育ちの白魚(しらお)でさえも花に浮かれて隅田川
 花見どきは、まことに陽気なものでございます。
「おう、みんな揃(そろ)ったかい?……ところで、ゆうべ大家が来てなア、『あした仕事ィ行く前に、みんな顔を揃えて家ィ来てくれ』っ言(つ)うんだよ。で、まアなんだか判んねえが、とりあえず俺ンとこィ集まってもらったてえ訳なんだ」
「月番のおめえが判んねえんじゃ、しゃアねえなア」
「まア俺の考えじゃア、《ちんたな》の催促じゃねえかって思うがね」
「なんだい? その《ちんたな》てえのア」
「店賃(たなちん)だよ」
「店賃? 店賃、大家がどうしようてえんだ」
「どうしようてんじゃねえ。催促だアな」
「店賃の? ヘエえ、ずうずうしいねえ」
「まア俺の考えじゃア、みんな相当滞(た)まってんじゃねえかって思うんだ。どうでえ、おめえ……店賃のほうア、どうなってる?」
「店賃? ……嫌(や)なこと聞くなよ……きまり悪いじゃねえか」
「てえと、持ってってねえな?」
「いや、なまじ一つ払ってあるだけィきまり悪いってんだよ」
「悪かねえやな。店賃なんてえのア、月々一つ持ってきゃいいんだ」
「月々一つ持ってってありゃア、きまり悪いなんてこたア言わねえや」
「そりゃアそうだ。じゃア、半年も前ィ一つ持ってったっきりってえのかい?」
「半年前に持ってってありゃア、威張(いば)っていられらア」
「じゃア、一年前か?」
「一年前なら澄(す)ましていられらア」
「てえと、二、三年前か?」
「二、三年前に持ってってありゃア、大家のほうから礼に来(く)らア」
「一体(いってえ)おめえ、いつ持ってったんだい?」
「この長屋ィ越して来た時」
「越して来た時ィ? おめえ、この長屋ィ来て何年になる?」
「月日のたつのア早いてえが、まったくだ。もう、十八年にならア」
「驚いたねえ……十八年住んでて、一つっきり? ヘエえ……。半公、おめえはどうだ? 店賃ア」
「ああ、店賃ね。うん、俺も一つやってあンぜ」
「まさか、十八年前(めえ)ってえんじゃねえだろうな?」
「あたり前だい。自慢じゃねえが、親父の代だ」
「おいおい、冗談じゃねえよ。まともィ払ってんのアいねえのかい……どうだ、松公。おめえなんざ、人間が堅(かて)えから、ちゃんと持ってってンだろ?」
「えっ? なにを?」
「店賃だよ」
「店賃? なんだいそりゃア?」
「あきれたねえ。店賃知らねえ奴が出て来やがった。……店賃てえのァなア、大家さんとこィ、月々持ってくお金」
「えっ?」
「大家さんとこのお金ッ」
「ああ、まだ貰(もら)ってない」
「くれやしねえやな、こん畜生ッ。ずうずうしいこと言やがって……これじゃア店退(たなだ)てくらうのも無理アねえや。しゃあねえ、行くだけ行ってみようじゃねえか。……おう、そんなバラバラんなっちゃいけねえ、かたまって行ったほうがいいんだ。で、大家がなんか言っても、腹ア立てずィ頭ア下げてろ。そうすりゃア、小言だってなんだって、スウーッと頭の上ェ通り越しちまうからな。……おう、ごらんよ。おでこィ八の字寄せて新聞読んでらア。……大家さあアん。おはようござんすゥ。長屋の連中がねえ、揃って来たんすがねえ、なんかご用でござんすかア」.
「なんだなんだ、あんな遠い所で……なんて恰好してンだい? ええ? まるで鼻アかんでる団体だよ。……そこでどなんじゃないよオ。みんなこっちィ来なア」
「ここで結構ですゥ。済(す)いませんがねえ、店賃でしたらねえ、もう少々待って貰いたいんですがねえエ」
「なに店賃だア? フッ、そうか。俺が呼ぶってえのア、店賃の催促と思うのか。まア、そう思ってくれるだけ有難えな。……おーい、店賃の催促じゃねえよオ」
「じゃア店賃は、もうあきらめたんですかア」
「あきらめやしねえよオ」
「まだ未練があんですかア」
「馬鹿なことオ言ってねえで、こっちィ来なア」
「おう、店賃じゃねえとよ。もう大丈夫だ。そばィ行ってみようじゃねえか」
「おはようござんす」
「ええ、おはようす」
「おはようす」
「おはようがんす」
「へい、おはようがんす」
「おい、おい、そう、大勢でおはようおはようって言うない。一人言やアいいんだ」
「さいですか。じゃア、あっしが月番でござんすから、総名代(みょうだい)てえことで……ええ、おはようございます」
「なんだい? 一番後で言う総名代てえのがあるかい。……しかし、なんだよ。俺もまア、あんな長屋を貸しとくんだから、満足に店賃とろうたア思っちゃいねえが……」
「ええ、ええ、そうでしょうとも。あっしらだって、あんな小汚(こぎた)ねえ長屋ア借りてんですから、満足に払おうなんて、誰ひとり思っちゃおりませんから、ええ。大家さんもご安心なすって……」

……冒頭より


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