「工芸の道」

柳宗悦/著

ドットブック版 166KB/テキストファイル 127KB

500円

「工芸の諸問題はまだ処女地として残る。不思議にも工芸の意義に関する深い叡智や正しい見通しは未だに語られていない。ほとんどすべては断片的であって整理せられた体系がなく、かつ内面的意味に乏しい。まだ耕して培(つちか)わねばならぬ個所が限りなく拡がる。その土地の性質や何がそこに生い立つかについても見残され、また見誤られたものがはなはだ多い。しかし早晩誰かが出てこの未墾の地に鋤(すき)を入れねばならぬ。それが耕すに足りる天然の沃野であるということに疑いはない。私はここに最初の難多き準備の仕事に身を置いたのである。すべての開墾者がなすように、私も雑草を抜き去り、石を除き、土塊(つちくれ)を砕き、畑を整えようと努めたのである。私はそこに幾個かの種を下ろした。いつか春はめぐり芽萌える時は来るであろう。収穫の悦びは来るべき人々の所有である。私のなさねばならぬ務めは、その実(みのり)の日に備えるための最初の支度である。私は多くの愛と愛情とを以てこの仕事をなした」…この序言が語るとおりの、柳の「工芸・民芸」論の到達点!

柳宗悦(やなぎ むねよし、1889〜61)民芸運動を起こした思想家、美学者、宗教哲学者。東京生まれ。旧制学習院高等科を経て東京帝国大学卒業。同人雑誌グループ白樺派に参加。生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え、民芸運動を起こした。1936年(昭和11年)には、目黒区駒場に日本民藝館を設立、機関誌「月刊民藝」を創刊した。朝鮮の美術、沖縄の文化の精力的な紹介、木食仏の発見などは、おもな事跡としてよく知られている。

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緒言

 一

 工芸、私はこの世界を如何に久しく愛してきたか。いつも一日がそれ等のものの中で暮れる。器物とはいうも既に一家の者達である。私を訪(おと)われる誰とても、それ等の者に逢わずしては帰ることが出来ない。だがその多くは見慣れないものに感じられたであろう。私はそれ等の多くを見捨てられた個所から救い出した。そのためであろうか、器(うつわ)は特に私の傍に在ることを悦ぶようにさえ思える。かくして長い間、お互に離れ難く朝な夕なを共に過ごした。そうしてその情愛の中で幾多の秘義が、その匿(かく)れた扉を私のために開いた。そうして文字なき真理の文(ふみ)が、数多くそこに読まれた。私は謝恩のしるしにも、示されたものを綴っておきたい。
 それに最近、親しい二、三の作家とのしばしばの往来は、私の思想に一層明かな影像を投げるに至った。私はその交友に対しても、ここに記念の筆を執るべきかと思う。それに今またそれ等の友と力を協(あわ)せて「日本民芸美術館」の設立を急ぐ私は、共に工芸に関する思想の建設をも試みるべきであろう。
 まして私に示された工芸の意義が、一般に解されるそれと非常に異なるのを知る時、それを闡明(せんめい)する任務が私に課せられているように思える。今日その真意はほとんど全く見失われているといってよいであろう。新しい工芸の諸展覧会はこのことを目前に証左する。そうして近時刊行される一切の工芸に関する歴史書もこのことを表示する。私は私の筆を執るべき時に達したと思う。しかし私は私自身ここに主張するのではなく、よき作品が示す工芸の意義を、そのまま忠実に伝えたいと思うのである。
 この問題が投げる放物線は広く且つ深い。美に結合し、生活に参与し、経済に関連し、思想に当面する。工芸が精神と物質との結合せる一文化現象として、将来異常な学的注意を集めてくることは疑いない。この時その諸問題のうち最も根本的な美に関する考察は特に緊要となるであろう。私が以下試みようとする幾個かの連続的論文は、工芸の美に関する私の長い間の考察の総決算となるであろう。最初私は工芸の美そのものの性質を述べ、次には工芸の本道が何であるかを論じ、かくて如何なる工芸が最も美しきかを説くであろう。また近代の工芸を毒せる諸原因について、また将来如何なる道によって、正しき工芸が発展されるか、それ等のことを順次に述べるであろう。

 二

 だが筆を起すに当って、如何なる立場を私が探るかについて、問われる方があるであろう。それ故このことに関し簡明に述べておきたく思う。それは以下の立論に対する理解へのよき準備ともなるであろうから。
 ものを見るのに誰でも一つの立場を選ぶ。立場なき見方というが如きものはないと考えられる。一つの対象に向いあるいは歴史的立場を、あるいは科学的立場をと選ぶ。そうしてそれ等もまた流派により更に細かい立場に分れる。そうしてその立場を厳守するほど立論は明確にされると考えられる。だが私達はもう一度吟味してよい。立場というものが、どうしても必要であるか。また「立場」に立つことが、ものの本質的見方を構成するか。立場なき見方というが如きは無意味であるか。
 そこにはなお哲学的疑義を挿む余地が充分に残る。なぜなら「立場」は畢竟(ひっきょう)一個の立場に過ぎないからである。多くの立場を同時に選ぶことは許されていない。だが多くの立場のうちの一個であるなら、そこに絶対値はなく、相対的意義に終るではないか。一つの権利主張ではあっても、権威とはならぬ。だが権威なくして何処に真理の至上性があろうか。
 立場より、更に徹底したものは、「立場なき立場」というが如きものではないであろうか。それも一個の立場に過ぎぬといってしまえばそれまでであるが、しかし「無名」は名ではなく、強いて名づけた仮名であると経(きょう)にも説いてある。丁度、「空」といい「不」というも、それが一相ではなく無相を指すのと同じ意味である。ものの理解にはかかる「不」の基礎がなければならぬ。それ以上に深い根柢はないからである。「立場なき立場」という言葉が奇異でありまた遁還的であるというなら、これを「絶対的立場」と呼んでもよい。然らばかかる「絶対的立場」とは何か。
 私は「直観」をかかる境地であると考えるのである。もし絶対的立場というものがあるなら、それは直観以外にはあり得ない。直観は拭(ぬぐ)われた立場、純粋立場ともいうことが出来よう。そうしてもし或る真理に権威があるなら、それは直観的基礎をもつ場合のみだということを断言してよい。

……冒頭より


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