「幸福」

モーム/田中西二郎訳

ドットブック  156KB/テキストファイル 113KB

300円

短編の名手モームの円熟期の作品、「獅子の皮」「山鳩の声」「人生の実相」「マウントドレイゴ卿の死」「幸福」の5編を収めた短編集。人生の驚くべき諸相に強烈な関心をいだきつづけた作家の到達点。
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  彼は中背の、がっしりした、肩幅の広い男であった。五十歳という年齢にふさわしく、肉づきはたっぷりしていたが、肥満してはいなかった。赤らんだ皮膚の色は、熱帯的な暑熱や、気候の不順さから影響を受けたわけではない。彼の血管を流れているのは、ゆたかな力づよい血液であった。髪は茶色で、毛が厚く、こめかみのところに少しばかり白髪がまじっているだけだった。立派な金色の口髭が彼の自慢で、いつも念入りにブラシをあてていた。彼の蒼い眼には、いつも快活な光がさしていた。この男は人生から大切にあつかわれて来た人間だと誰しも思うだろう。
 彼の姿をみると、いかにも好人物らしく、その体力の強壮さから、何となく信用のおけそうな感じがする。オランダの古い画にあるような、栄養のいい、赤ら顔のブルジョア――桃色の頬をしたその妻と一緒に、せっせと稼いだお蔭で金がたまり、面白おかしく暮らしている、そういうブルジョアを彼は連想させる。もっとも彼はやもめである。彼の名はルイ・ルミール、彼の番号は六八七六三号である。彼は妻を殺した罪によって十二年の有期刑を課され、フランス領ギアナの犯罪人植民地サン・ローラン・ド・マローニで服役しているのだが、一つには彼がもと生まれ故郷のリヨンの警察につとめていたためと、一つには彼の人柄がいいためとで、一つの役人としての地位を与えられている。つまり彼は二百人近い志望者のなかから選ばれて、公式死刑執行人になっているのだ。
 彼が非常に大切にしている、例の立派な口髭をのばすことを許されているのも、そのためである。口髭を生やしている囚人は彼のほかにいない。ある意味で、それは彼の職掌の徽章(バッジ)のようなものだと言ってもいい。同時に彼が自分の衣服を着ることを許されているのも、この理由による。囚人たちはピンクと白の縞のピジャマを着て、つばの丸い麦藁帽をかぶり、上は革で底は木の不格好な靴をはいている。ルイ・ルミールは沓下なしで運動靴をはき、青い木綿ズボンに、毛ぶかい男性的な胸のみえる開襟のカーキ色シャツを着ている。彼が公園などで、黒人や白黒混血の子供の遊んでいるのを、やさしい眼で見やりながら、悠然とあるいているのを見ると、どこかのちゃんとした商店の主人が、ひとときの閑をたのしんでいるのかと思われる。
 彼は自分の家に住んでいる。これは彼の役得の一つであるばかりでなく、そうせざるをえない必要があったのだ――もし彼が刑務所のなかに寝起きしていたら、囚人たちからあっさり生命をちぢめられるにきまっていたから。朝起きてみたら、腹をまっ二つに裂かれているというわけだ。

……「幸福」巻頭より

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